「侑士、そろそろ終わりにしようぜ。」
「せやな。今日帰りどっか寄って行かへん?岳人。」
「いいぜ。」
全国大会は終わってしまったが、自主練ということで、元レギュラーメンバーは頻繁に部
活に顔を出している。ダブルスの練習を終え、帰ってゆく岳人と忍足を宍戸はぼーっと眺
めていた。
「あいつら、いいよなあ・・・」
二人の会話を聞いていて、宍戸は少し気になるところがあった。それは、本当に大したこ
とではないのだが、宍戸にとっては羨ましいと思えることだった。
「おい、ジロー、いつまで寝てやがんだ。練習しねぇんだったら、さっさと帰れ!」
と、練習をしている後ろから跡部の声が聞こえる。その声を聞いて、宍戸はドキッとする。
「ん〜・・・何だよ、跡部〜。」
「邪魔だっつってんだよ。」
「別にいいじゃんかあ・・・オヤスミぃ〜。」
「あっ、ジロー、テメェ、起きろって言ってんだろ!!」
ベンチで寝ているジローを起こそうと跡部は大声でジローの名前を呼ぶ。それだけのこと
が今の宍戸にとっては、非常に引っかかることだった。
(ジロー、ずりぃ・・・)
宍戸の心の中で妙なもやもや感が生まれる。そんなもやもや感を一掃しようと、宍戸はか
ごに入っているボールを様々な色のコーンに向かって打ちまくった。
「何か宍戸さん荒れてないか?」
「ウス。」
「そうだね。どうしたんだろう?」
違うコートで練習をしている日吉や鳳や樺地は、宍戸の機嫌があまりよくないことをすぐ
に察知する。しかし、そんな宍戸に構っている余裕はない。二年生メンバーは次の大会に
向けての練習メニューをこなしていかなければならないのだ。
「そろそろ片付けさせた方がよさそうだな。おい、萩之介、一年にボールを片付けさせろ。」
下校の時間が近づいていることに気づき、跡部は滝にそんな指示を出す。
「了解。てか、別に今の状態では混乱はしないからさぁ、普通に名字でいいよ。」
「ああ、悪ぃ悪ぃ。この前の青学戦であんなことがあっただろ?だから、思わずな。」
「確かにあの場で名字で呼んでたら、シャレに聞こえるか、自分が呼ばれてるか分からな
い状態だったからねー。」
青学戦でのあんなこととは、乾が出した超高速サーブの名前が「ウォーターフォール」に
なったことだ。「ウォーターフォール」を和訳すると、その名の通り「滝」である。サー
ブの速さを測っていた滝に速さを尋ねた跡部だが、そんな一連の流れから滝を名前で呼ば
ざるを得なかった。それが思わず、今出てしまったのだ。
「じゃあ、俺、一年に指示だしたら帰るね。今日はもう十分自主練したし。」
「ああ。じゃ、頼んだぜ。」
「うん。」
跡部が滝に指示を出したのは聞こえたが、その後の会話までは宍戸には聞こえなかった。
そのことが、宍戸の気持ちをさらにもやもやさせた。
「・・・ッ!」
小さく舌打ちをし、宍戸は赤いコーンに向かって思いきりボールを打つ。ピンポイントで
打ったボールはコーンに当たり、そのコーンはゴロゴロと転がった。
『・・・・・・』
それを見ていた二年生レギュラーメンバーは、固まってしまう。どうしてここまで不機嫌
になっているのかが分からないのだから当然だ。
「お、俺たちもそろそろ片付け始めようか。」
「そ、そうだな。だいぶ日が暮れるのも早くなってるし。」
「ウス。」
宍戸の傍で練習するのは何だか危険なような気がして、三人はそそくさと片付けを始める。
ちらちらと宍戸の様子をうかがいながら、片付けをしたが、やはりどう見ても怒っている。
二年生メンバーが片付けに入っているのに気づき、跡部は声をかけた。
「長太郎。」
「は、はい!」
「俺はもう少し残ってるから、部室の戸締りは任せろ。樺地も今日は先に帰っていいぞ。」
「ウ、ウス。」
一番近くにいた鳳に声をかけ、そんなことを告げる。それならば、さっさと帰ってしまお
うと思った瞬間、日吉がジャージの袖をくいっと引っ張った。
「おい、鳳。」
「何?日吉。」
「宍戸さんが、お前のこと超睨んでるぞ。」
「えっ?」
くるっと宍戸の方を振り返ってみると、確かにすごい形相で睨んでいる。
「お、俺、何か悪いことした?」
「いや、特にはしてないと思うが・・・」
「ウス。」
「怒られるの嫌だから、早く帰ろう。」
「ああ。触らぬ神にたたりなしって言うしな。」
「ウス。」
何故だか怒っている宍戸が怖すぎると、二年生メンバーは逃げるように部室へと走って行
った。変に慌てている様子の三人を見て、跡部は不思議に思う。
「どうしたんだ?」
首を傾げながら、跡部は三人を見送る。そして、やらなければいけない仕事を終わらせ、
ほんの少しの時間、自主練をした。
もうすっかり日が暮れた頃、跡部は練習を終える。コートにはもう誰もいない。部室にも
誰もいないだろうと思いながら、着替えに戻る。
「ん?」
誰もいないだろうと思っていたのに、何故か電気がついている。不思議に思い、ドアを開
けてみると、そこにはシャワーを浴びたばかりと思われる宍戸の姿があった。
「うわっ!あ、跡部!?」
「テメェ、まだ残ってたのか?」
宍戸も残っているのは自分一人だと思っていたので、跡部が突然部室に入ってきたことに
激しく驚いた。ドキドキと高鳴る心臓を誤魔化しつつ、宍戸は着替えをしにロッカールー
ムへと入る。その後に続くように跡部もそこに入った。
「はあ・・・」
さっきの今で跡部と二人きりになり、何だか気まずいと宍戸は溜め息をつく。自分がある
ことを気にしていることなど、跡部は全く気づいていない。しかし、それを言葉に表す程
の勇気は宍戸にはなかった。
「おい。」
「わっ!」
「何そんなに驚いてんだよ?」
「い、いきなり後ろから声かけるからだろ!」
「そこまで驚くことじゃねぇだろ。それよりテメェ、髪が少し伸びてきてるが、バラバラ
だぜ。」
まだ少し濡れている髪に触れ、跡部はそんなことを言う。特に気にしていなかったが、い
ざそう言われて鏡を覗いてみると、確かに長さがバラバラである。
「まあ、あんな切り方しちまったしな。しょうがねぇだろ。」
「でも、それじゃあ、格好がつかないぜ。ハサミあるか?」
「へ?何で?」
「俺様がそろえてやる。どうせまた髪は伸ばすつもりなんだろ?だったら、綺麗にそろえ
ねぇと格好悪いぜ。」
どんな風の吹き回しだと思いながらも、宍戸は素直に切ってもらうことにする。ちょうど
鞄の中に授業で使ったハサミが入っていたので、宍戸はそれを跡部に渡した。
「こんなんで切っていいのか?」
「構わねぇよ。跡部だったら、どんなハサミでも綺麗に切ってくれるだろ?」
「ふっ、間違いねぇな。」
宍戸からハサミを受け取ると、跡部は宍戸をいつもは自分が座っている一人掛けのソファ
に座らせた。
チョキ・・・チョキ・・・・
部室内にハサミの刃が触れ合う音だけが響く。そんな沈黙を破るかのように、宍戸は小さ
く口を開いた。
「なあ・・・」
「ん?どうした?」
「今日さ、跡部、滝のこと萩之介って呼んで、長太郎のことも名前で呼んでたろ?」
「ああ。それがどうかしたか?」
「別に大したことじゃねぇんだけど・・・ちょっと気になってさ。」
突然何を言い出すのだろうと、跡部は頭にハテナを浮かべる。何故そんなちょっとしたこ
とを気にするのだろうと、跡部は少し頭を回転させてみた。
「気に入らなかったのか?」
「えっ?」
「俺があいつらを名前で呼ぶのが。」
図星を指され、宍戸は動揺する。しかし、滝や鳳を名前で呼ぶのが気に入らなかったので
はない。自分も名前で呼んで欲しいと思っていたところで、そんなことをされたために何
となく腹が立ったのだ。
「べ、別にそういうわけじゃねぇんだけどよ・・・」
「滝を名前で呼んだのは、この前の青学戦で名前で呼んだのがふと出てきちまっただけだ。
実際、その後、滝に名字でいいって言われたしな。鳳を名前で呼んだのは、テメェがいつ
もそう呼んでるから、それがうつっちまっただけだぜ。」
「ふーん、そっか。」
それを聞いて宍戸は何だかとても安心する。そんな宍戸の表情を見て、宍戸が何故今日は
こんなにも名前の呼び方にこだわっているのかに、跡部は気づいた。髪を長さを綺麗に整
え終えると、跡部はハサミを机に置き、宍戸を自分の方に向かせる。
「よし、綺麗になったぜ、亮。」
「おー、サンキュ・・・えっ!?」
名前の方で呼ばれ、宍戸はあからさまに驚くような反応を見せる。どうやら自分の考えは
当たっていたようだと、跡部はニヤける。
「名前、呼んで欲しかったんだろ?」
「えっ・・あっ・・・」
何故分かってしまったのかと、宍戸は慌てるような素振りを見せ、かあっと顔を赤く染め
てうつむいてしまう。本当に素直な反応を見せてくれるなあと、跡部は笑いを噛み堪えて
整った髪の毛をわしゃわしゃと撫でてやった。
「分かりやすいんだよ、テメェは。俺様のインサイトをなめんなよ?」
「あうぅ、だって・・・」
「俺だけ名前で呼ぶのは不公平だ。名前で呼んで欲しいんだったら、テメェも俺のこと名
前で呼べよ?」
ニヤリと笑って跡部は言う。岳人と忍足の会話を聞いていて羨ましいと思っていたこと。
それが今、こんなにも簡単に出来てしまう。それが何だか恥ずかしくて嬉しくて、宍戸は
蚊の鳴くような声で、跡部の名前を呼んだ。
「・・・ぃご。」
「アーン?何だって?もっとハッキリ言いやがれ。」
「景吾!」
「何だ?亮?」
またハッキリと名前を呼ばれ、宍戸の顔は火がついたように赤くなる。そんな表情変化が
面白く、跡部はくっくと笑った。
「テメェは本当可愛い反応見せてくれるよな。」
「ウルセー!!慣れてないから恥ずかしいんだよ!!」
「そんなとこも好きだぜ、亮。」
何度も名前で呼ばれ、宍戸は心の底から嬉しくなる。しかし、その嬉しさを素直に顔に出
したり、言葉に出したりはしない。ただ照れたような態度を見せるだけで、くるっと跡部
に背を向けてしまった。
「全く、素直じゃねぇなあ。」
背を向けられたのなら、こっちから近づくまでだ。コツコツと宍戸に近づいて行くと、跡
部はそのまま宍戸の体を後ろから抱き締めた。
「っ!?」
「もっと甘えろよ。して欲しいことがあったら素直に言えばいい。」
「で、でも・・・やっぱ、恥ずかしいし・・・・」
「今なら二人きりだ。名前ならいくらでも呼んでやる。恥ずかしがることなんて一つもね
ぇぜ。」
ぎゅっと抱きしめられ、耳元でそんなことを囁かれれば、宍戸もその気になってしまう。
顔を真っ赤にしたまま、顔だけ跡部の方に向けると、ボソっと小さな声で呟いた。
「じゃあ・・・いったんソファに・・・」
「了解。」
いったん宍戸から離れると跡部は宍戸より先にソファに座った。すると、宍戸は跡部の足
を跨ぎ、膝をソファにつくような形で座り、跡部の首に腕を回す。
「随分、大胆な座り方だな。」
「ウルセー、テメェがして欲しいことがあったら言えって言ったんだろ。」
「そうだな。で、テメェは何がお望みなんだ?」
「・・・べ、別に何にもしなくていいからよ、少しの間、このままで居てくれねぇか?」
恥ずかしそうにそう言う宍戸は、そのまま押し倒してしまいたくなるほど可愛らしい。し
かし、跡部はそんな欲求を必死で堪えて、そっと宍戸の背中に腕を回すのにとどめてやっ
た。
「それでも別に構わねぇが、それだけじゃ俺にとっては相当酷だぜ?」
「うっ・・・じゃ、じゃあ、名前呼んで、キス・・・するってのは?」
「そっちのが俺にとっちゃ都合がいいな。」
ただ抱き合うだけでは物足りないと跡部は半強制的に宍戸にそんなことを言わせる。しか
し、宍戸自身も抱き合うだけではとても満足出来るとは思っていなかった。ただ、それ以
上のことを言うのが恥ずかしく、言葉にすることが出来なかったのだ。それが、跡部の素
直な言葉によって導き出される。
「亮・・・」
「ん・・・んぅ・・・」
名前を呼ばれながらのキスは、宍戸にとって、どうしようもないくらいに気持ちがよかっ
た。胸がキュンとして、頭の中がとろけそうになる。そんな心地よさに浸りつつ、宍戸も
キスの合間に跡部の名前を呼ぶ。
「・・・ふ・・・はっ・・・景吾・・・」
「可愛いぜ、亮。」
「俺・・・景吾にキスされんの、すっげぇ好き。」
「俺もテメェとキスするのは大好きだぜ。」
「もっと・・・名前・・・」
「ああ、亮。」
何度も名前を呼び、それと同じだけキスをする。部活中のもやもや感はどこへやら。今の
宍戸の気持ちは跡部に名前を呼ばれる嬉しさと心地よさでいっぱいだった。飽くまでそん
なことをしていると、どちらも満足気な溜め息を漏らす。
「満足か?亮。」
「・・・おう。」
「じゃ、そろそろ帰るか。もうすっかり夜になっちまってるもんな。」
「そうだな。」
途中だった着替えをちゃっちゃと済ませると、二人は帰る支度をし、部室の戸締りをする。
帰る準備が完璧に整うと、二人はそろって部室を出た。
「あのさ・・・景吾。」
「アーン?」
「下の名前で呼び合うのはさ、やっぱこういうふうに二人きりの時だけにしとくぜ。」
「どうしてだ?」
「だって、何かそっちの方が“特別”って感じがすんだろ?」
「まあ、確かにな。」
「俺ん中で景吾はやっぱ特別だし、跡部ん中でも俺が特別であって欲しいから。」
「安心しろ。俺の中でだって、亮は十分特別だ。」
跡部のその言葉を聞いて、宍戸は照れつつも笑顔になった。「特別」という言葉が頭の中
でリピートされる。いつもとは違う呼び方で相手を呼ぶ。それは、お互いが「特別」で
あることを確認するための合い言葉になるのであった。
END.