真夏の晴れたある日、忍術学園から少し離れた場所で実習が行われていた。木の上から合
戦場を偵察し、各々の城の戦力をはかる。そんな実習中に滝夜叉丸は、ふと空を見上げた。
真っ青に澄んだ空に、熱い風が運ぶ夏の匂い。それはどこか懐かしく、滝夜叉丸の意識を
一瞬現実から連れ去る。
(何だろう・・・この感じ。)
空に浮かぶ白い雲を見ていると、どこか遠くから自分の名前を呼ばれるような気がした。
それは今はあまり聞けないが、昔はよく耳にした声で、滝夜叉丸の胸をぎゅっと締めつけ
る。
「・・・しゃ・・・丸・・・おい、滝夜叉丸!!」
すぐ側で聞こえる声に滝夜叉丸はハッとする。声の主は一緒に実習を行っている三木ヱ門
であった。しかし、先程聞こえたと思った声は三木ヱ門ではない。
「ぼーっとしてちゃダメだよ。滝夜叉丸。」
「最近、実習続きだからねー。ちょっと疲れちゃってるのかな?」
三木ヱ門に続けて、綾部やタカ丸も滝夜叉丸に声をかける。今は実習中だということを思
い出し、滝夜叉丸は他のメンバーに謝った。
「あ、ああ、すまない。ちょっとぼーっとしてた。」
「疲れてるのは、私達だって同じだ。実習に失敗して補習とかになるよりは、さっさと済
ませちゃった方がいいだろ。」
「そうだな。」
気を取り直して、滝夜叉丸は実習に集中する。おかげで、特に大きな問題もなく課題を終
えることが出来たが、滝夜叉丸は何だかもやもやした気分がしばらく残っていた。
実習が終わっても、六年生になった彼らはとにかく毎日が忙しかった。以前よりも難しい
授業に、より実践的な野外演習。卒業した後のことを考えての就職活動に、委員長として
の仕事を行わなければならない委員会活動。それらを全てこなしていかなければならなか
った。
「はあー、今日も一日疲れた。」
風呂に入った後、タオルで髪を拭きながら、滝夜叉丸は長屋に向かって廊下を歩く。六年
生の部屋の前まで来ると、タカ丸が廊下に座っているのに気がつく。
「あ、こんばんは、滝夜叉丸くん。」
「こんばんは。こんなところで何してるんですか?タカ丸さん。」
「特になにもしてないよー。ちょっと涼んでるだけ。」
「確かに部屋にいるよりは、風があってまだマシですもんね。」
思ったよりいい風が吹いているなあと、滝夜叉丸はタカ丸の隣に腰を下ろす。ふうっと小
さく溜め息をつくと、タカ丸が顔を覗き込んできた。
「な、何ですか?」
「いやー、滝夜叉丸くん、だいぶお疲れだなあと思って。」
「ここのところ忙しいですからね。」
「確かにねー。六年生になったら、本当前の学年とは比にならないくらいに忙しくなった
よね。」
「卒業後の進路もなかなか決まらないし、どうしたものかなあと。」
学年が上がっても、滝夜叉丸の自慢癖は抜けておらず、忍者の面接ではぐだぐだと喋りす
ぎてしまって、不採用となることが多かった。それではダメだと思っていても、長年の癖
はなかなか治らないものだ。
「タカ丸さんは、卒業したらどうするんですか?どこかの城に就職したりとかは考えてま
す?」
「んー、とりあえずは、実家の髪結いしながら考えようかなあと思ってる。フリーの仕事
があればそれでもいいかなと思ってるし。兵助くんも似たような感じだしね。」
「久々知先輩ですか?」
突然久々知の名前が出てきたので、滝夜叉丸は思わず聞き返す。自分達が四年生であった
ときの先輩は、卒業してからはほとんど会っていないので、タカ丸がそんな先輩陣の状況
を知っていることに驚いたのだ。
「兵助くんは、今、お豆腐屋さんしながら忍者してるんだよ。うちの髪結いの近くにお店
を出してね。だから、実家に帰るとお豆腐をもらう代わりに髪の手入れをするとか、よく
してるんだ。僕はお豆腐よりも兵助くんの髪を触る方が嬉しいんだけどね。そんなこと言
ったら、怒られちゃうけど。」
いつも通りの笑顔でタカ丸はそんなことを話す。そのとき滝夜叉丸の胸に浮かんだのは、
思ってもみない感情であった。
(羨ましい・・・)
それは、卒業後の進路が決まっていることに対してではなく、卒業した久々知に会ってい
るということに対してであった。滝夜叉丸自身、どうしてそんなことを思ったのか、すぐ
には分からなかった。
「滝夜叉丸くんは、小平太くんとかに会ったりしないの?」
「えっ・・・?」
『小平太』という名前を聞いて、滝夜叉丸の心臓はドクンと跳ねる。六年生になってから
はあまりにいろいろなことがありすぎて、思う時間もひどく少なくなっていたが、滝夜叉
丸の胸には、いつも小平太の存在があった。
「・・・会ってないです。」
「そっか。小平太くんはどこかのお城に就職したんだよね。それだと、確かに忙しそうだ
もんなー。」
一番思う人の名前を聞いて、滝夜叉丸は動悸が止まらなくなっていた。最近は忘れていた
感情が一気によみがえる。
「どうしたの?滝夜叉丸くん。」
「えっ!?」
「何かちょっと辛そうな顔してるから。」
「ちょ、ちょっと、疲れてるだけです。あっ、そろそろ部屋に戻って休みますね!」
「うん。ゆっくり休んでね。明日はお休みだし。」
「そうですね。それじゃおやすみなさい。」
「おやすみ〜。」
タカ丸と別れ、滝夜叉丸は部屋に入る。同室の綾部は既に眠っていて、部屋は薄暗かった。
滝夜叉丸も布団に入り、ぎゅっと目をつぶる。泣きたくなるような切なさを感じながら、
眠りにつけるのを待った。
次の日、休みであったため、滝夜叉丸は裏裏山にある草原にやってきた。体育委員会でも
よく来る場所であるが、一人で来るとまた少し雰囲気が違って感じられる。
ザアァァ・・・
風が吹き抜け、草が揺れる。何気ない当たり前の景色。昔から何度も何度も見て来た景色
だが、だからこそ滝夜叉丸の心は揺れた。
「七松先輩・・・・」
この景色を一番一緒に見ていた人の名前を滝夜叉丸は呟く。一年生から体育委員の滝夜叉
丸は、同じくずっと体育委員会であった小平太と何度もここに来た。春風が吹くときは、
鮮やかな色の花がいくつも咲いていた。今は青々としている草原だが、滝夜叉丸の心は春
風が吹く季節と同じように様々な色で染まっていく。
「どうしてこんなに遠くて会えない状況で、あの時のことを思い出すんだろう。昔と同じ
ようにこの場所で話がしたい。どんな話でもいい。七松先輩と話がしたい。」
遠く離れているこの状況で、滝夜叉丸は素直に心に思うことを口にする。叶わないと分か
っていても、滝夜叉丸はそう願わずにはいられなかった。
「会いたい。」
心からの想いが溢れる。人並み外れた体力と細かいことを気にしない性格に、滝夜叉丸は
いつも振り回されていた。それでも、滝夜叉丸は小平太のことを慕っていた。遠く離れて
気づいた小平太への想い。その想いを風に乗せるように、滝夜叉丸は小平太へと繋がる空
を見上げた。
『おー、こんなところにいたのか、滝夜叉丸。』
『七松せんぱーい!!』
まだ、一年生であった滝夜叉丸は、体力自慢の委員長の走る速さに追いつけず、他のメン
バーからはぐれ、一人山の中に置いていかれてしまうことがよくあった。そんなときは、
決まって二学年上級生の小平太が迎えにくる。他の先輩が見つけられずとも、小平太だけ
は必ず滝夜叉丸を見つけることが出来たのだ。
『ほら、もう泣くな。』
『ひっく・・・でも・・・わたし、また置いていかれて・・・』
『滝夜叉丸は、将来立派な忍者になるんだろ?そんなことで、泣いていたらカッコ悪いぞ。』
涙でぐしゃぐしゃの滝夜叉丸の顔を拭いながら、小平太は明るい笑顔でそう諭す。その言
葉を聞くと、滝夜叉丸は決まって泣きやんだ。
『私も将来は立派な忍者になる。他のみんなに負けないような忍者にな!』
『他のみんなというのは、体育委員会の他の先ぱい方ですか?』
『それもあるけど、どちらかと言えば、同じ学年の奴らだな。』
今の三年生のメンツを思い出し、滝夜叉丸はなるほどなーと納得する。現在の三年生は、
個性的ではあるが、とても優秀であることで有名であった。
『七松先ぱいなら、きっとなれると思います。』
『滝夜叉丸にそう言ってもらえると嬉しいぞ!』
『わたしもなれますか?』
『当たり前だろ!絶対なれるさ。』
手を繋ぎながら歩き、小平太と滝夜叉丸はそんな会話を交わす。委員会があるときは、い
つでも隣にいて、立派な忍者になるという夢の話をする。それは、学年が上がっても続け
られた。
草原の上でうとうとしながら、滝夜叉丸はそんなことを思い出す。立派な忍者になるとい
う夢は、六年生になった今でもしっかりと心の中にあった。
「ああ、もうこんな時間か。そろそろ帰らないと。」
いつの間にか太陽は西の向こうに傾き、山の色を変えていた。すっと立ち上がり、忍術学
園に向かって歩き出す。オレンジ色に染められた山道。小平太がいたときは、幾度も幾度
もこの道を二人きりで歩いた。体育委員会の仕事だと言って連れてこられ、面白いものを
見つけたと言っては連れてこられ、毎回日暮れになってからこの帰り道を通る。
「一人でこの道を通るのは、こんなに寂しいのか。」
小平太といたときの記憶が鮮明に蘇り、滝夜叉丸は思わずそう呟く。多少無理矢理連れて
こられることもあったが、時には悩みを抱えているときに、話を聞いてもらったりもして
いた。そんなときは、いつもより長くこの場所にいて、山の上に星が現れるのを待った。
明かりのない山の上は、日が沈むとたくさんの星が現れる。そんな星を眺めていると、嫌
なことなど全て忘れてしまえるようであった。
「七松先輩・・・」
小平太と一緒に、時には笑いながら、時には泣きながら、歩いたこの道で立ち止まり、滝
夜叉丸はポロポロと涙をこぼす。しかし、今は泣くなと頭を撫でてくれる小平太はいない。
この場所で思い出すのは、どこまでも明るく細かい事は気にするなと笑ってくれる小平太
の優しさだけであった。
「もうずっと昔のことなのに、どうして今更こんな気持ちになるんだろう。あのときもあ
のときも、七松先輩はすごく優しかった。でも、あのときはそれが優しさだって気づけな
かった。」
当時は振り回されているとしか思っていなかった小平太の行動も、今思い返せば、自分を
思ってのことだと思われることがいくつもあった。この優しさに気づける心があの頃にも
持てていたのならば、別れる前にもっと感謝出来たのにと、滝夜叉丸はさらに涙を流す。
そんな思いを抱えたまま、滝夜叉丸はゆっくりと忍術学園に向かって歩き出した。
「あ、滝夜叉丸!!どこ行ってたの?先生が呼んでたよー。」
「へっ?」
「何か大事な話があるってー。」
忍術学園に帰ると同室の綾部が滝夜叉丸に声をかける。何の話だろうと、職員室へ向かう
と、滝夜叉丸は嬉しい知らせを受けた。
それからしばらくして、現六年生は卒業式を迎える。滝夜叉丸以外も皆卒業後の進路が決
まり、皆晴れ晴れとした様子で卒業式を迎えることが出来た。
「お前がちゃんとした城に勤められるなんて、奇跡だなー。」
「うるさい!!お前こそそうだろうが。」
「まあまあ、みんなちゃんと決まったんだからよかったじゃない。」
「ぼくはー、穴が掘れればどこでもよかったからすぐ決まったよ。」
『何でだよ!!』
今までと変わらない雰囲気で、卒業するメンバーは忍術学園を出る準備をする。忍術学園
の門をくぐり、外へ出ると聞いたことのある声が耳に入る。
「滝夜叉丸!!」
その声に全員が振り返る。そこにはほんの少しだけ大人っぽくなった元体育委員長の姿が
あった。
『七松小平太先輩!!』
「おー、久しぶりだな。お前達。」
昔と変わらない笑顔で小平太は卒業したての六年生に挨拶をする。あまりに突然の出来事
に滝夜叉丸の思考はすっかりショートしていた。そんな滝夜叉丸の目の前に移動し、小平
太はポムッと頭に手を乗せる。
「えっ・・・あ・・・七松先輩・・・?どうして・・・?」
「お前を迎えに来た。」
「へっ!?」
「滝夜叉丸はこれから私の後輩になるわけだからな!」
小平太の言ってることがなかなか理解出来ず、滝夜叉丸は目をパチクリさせる。
「もしかして、滝夜叉丸の勤める城って七松先輩のいる城ってこと?」
「そうそう!!だから、滝夜叉丸は私の後輩になるわけだ。」
「えっ・・・じゃあ、これからまた七松先輩と一緒にいられる・・・?」
「そうだぞ!どうだ?嬉しいか?」
やっと状況を理解した滝夜叉丸は、様々な気持ちが溢れ、感情が一気に高まる。それが涙
となり、滝夜叉丸を号泣させた。
「う・・うわああぁんっ・・・七松先輩ーー!!」
目の前にいる小平太に思いきり抱きつき、滝夜叉丸はわんわんと子どものように泣く。本
当に昔と変わらないなあと思いながら、小平太はくすっと笑う。
「よーし、滝夜叉丸!!裏裏山へ行こう!!」
「えっ!?」
「ほら、行くぞ!!いけいけどんどーん!!」
まだ泣きやまない滝夜叉丸の手を引いて、小平太は走り出す。そんな二人をやれやれとい
った表情で、他の卒業生は見送った。
あっという間に裏裏山の頂上まで来ると、小平太は自分の城であったことを話し出す。
「お前がうちの城に採用試験を受けに来た日にな、その試験官がお前のことを話してくれ
たんだ。自分語りがひどい変わった奴が受けに来たって。」
「そう・・・なんですか?」
「で、自慢話ばかりで、不採用にしようかなと思っていたらしいんだけど、少し気になる
ことがあるって。それが、『尊敬する人は誰ですか?』という質問についてだって言って
てな。それを聞いたら、今はもう卒業してしまった自分の学校の先輩で、細かいことは気
にしないし、人間離れした体力で後輩達を振り回して、いつも困らせてた。でも、忍術の
腕もいざというときの判断力もすごく優秀で、心から尊敬している先輩です。って、すご
くイキイキとした表情で答えたらしいんだよ。」
「あっ・・・」
確かにそう答えた城があったと滝夜叉丸は思い出す。もちろんそれは小平太のことであっ
た。
「そんなこと言う奴、お前一人しかいないだろ?その試験官もその先輩というのが私のこ
とじゃないかって気づいてな。だから、話してくれたわけだ。で、自慢話ばかりの奴だけ
ど、腕は優秀で責任感も強い奴ですよって教えたら、私が教育係になるなら採用してもい
いってなった。」
その話を聞いて、滝夜叉丸は再び泣き始める。さっきから泣いてばかりの滝夜叉丸に苦笑
しながら、小平太は滝夜叉丸の頭を撫でた。
「滝夜叉丸はいつまでたっても泣き虫だなあ。」
「だって・・・私は、六年生になってからすごく忙しくなって・・・でも、そんなときに
七松先輩のことを思い出して、すごく会いたかったのに・・・会えないと思ってて・・・
それで・・・」
小平太のことを思い出してからの自分の気持ちを滝夜叉丸は素直に伝える。その想いを聞
いて小平太はどうしようもなく嬉しくなった。
「じゃあ、また、私と会えて滝夜叉丸は嬉しいか?」
「もちろんです!」
「私もまた滝夜叉丸に会えてすごく嬉しいぞ!!それにこれからまた、一緒に忍術の勉強
や仕事が出来るしな!」
にぱっと笑って、小平太は滝夜叉丸を抱きしめる。久しぶりの小平太のぬくもりに滝夜叉
丸の胸は熱くなった。
「たまにはこの場所にも二人で来ような。昔みたいに。」
「はい!あ、そうだ!!」
「どうした?」
「今も昔も私のためにいろいろしてくれて、ありがとうございます。七松先輩。」
まだ涙の跡が残っている顔で、滝夜叉丸は最高の笑顔を浮かべ、小平太に感謝の言葉を述
べる。昔より少し大人っぽくなったその笑顔に、小平太の胸はひどくときめいた。
「今のは反則!!」
「はっ?何がですか?」
「滝夜叉丸、可愛すぎ!!久しぶりに会って、そんな顔見せられたら、いろいろ我慢出来
なくなっちゃうだろ!」
「何言ってるんですか。まあ、とにかく、アレですね。」
「何だ?」
「これからもよろしくお願いします。七松先輩。」
「おう!よろしくな、滝夜叉丸。」
二人でよく来たこの場所で、滝夜叉丸と小平太は昔と同じように笑いあう。つのる話をし
ていると、いつの間にか日は暮れ、空には無数の星が輝き始める。遠く離れたときもあっ
たが、こうしてまた同じ場所で昔と同じように二人は話をしている。二人をずっと見てい
た星達はその影に、二人が見た景色を、そして、二人がいた景色をこの場所に蘇らせた。
END.