とある部活の日、財前は銀の姿がないことに気がつく。朝練は出ていたので、今日学校を
休んでいるということはない。どうしたのか気になり、財前は白石に尋ねる。
「白石部長。今日、師範部活出ないんスか?」
「何や風邪気味らしくてな。授業は最後まで出とったみたいやけど、部活は休む言うとっ
たわ。熱があるとかそういう感じやないらしいんやけど、ちょっと咳が出る言うとったな。」
「そうっスか。」
「まあ、明日明後日は土日で休みやからな。ゆっくり休んどくように言っといたで。」
それなら仕方がないと思いつつ、銀が風邪気味だということを聞いて、財前は少し心配に
なる。寮暮らしの銀は、風邪を引いていても看病してくれる人はいない。千歳も同じ寮だ
が、軽い風邪で様子を見に行くとは思えない。
(師範、ここ来る前は喘息があるって言うとったな。それで咳が出てる言うんは、ちょっ
と心配や。)
白石との会話を終えると、財前はラケットを片手にスマホをポチポチといじる。財前の頭
の中は部活よりも、銀のことでいっぱいになっていた。
次の日、財前は銀に連絡を取る。白石の言っていた通り、熱は出ていないが咳がひどいと
いうことだった。
『心配してくれておおきに。高熱が出とるいうわけやないから大丈夫や。ちょっと咳が出
て、あんまり眠れてへんけどな。』
銀からのメールを見て、財前はいても立ってもいられなくなる。
「眠れんほどの咳って、そんなん大丈夫やないやん。やっぱり行ってみよ。」
昨日の部活中に咳の症状を和らげる対策を調べ、帰りにドラッグストアに寄り、用意出来
るものは用意していた。それらを手にし、財前は四天宝寺の寮へと向かう。行くというこ
とを銀に連絡すると、風邪がうつるから来ないで欲しいと言われると予想して、財前はメ
ールでは『お大事に』という内容だけを送っていた。
(師範、大丈夫やなくても大丈夫って言うからな。ちゃんとこの目で様子見ないと、心配
でしゃーないわ。)
そんなことを考えながら、財前は早足で寮までの道を歩いた。
四天宝寺の寮に到着すると、財前は迷わず銀の部屋へと向かう。銀の部屋のドアをノック
すると、少しの間があってから、部屋着の銀が出てくる。
「っ!?財前はん?」
「ちわっス。師範のことが心配で、来ちゃいました。」
「せやけど、ワシは今風邪引いとって、財前はんにうつしてまうと・・・」
「そう言うと思って、黙って来たんスわ。ていうか、師範、声ガラガラやないっスか。ち
ゃんと休んでて下さい。」
銀を部屋へと押し込むようにして、財前は銀の部屋に入る。困ったような表情をしている
銀をちらりと見ると、いつもより明らかに顔色が悪かった。
「師範、昨日ちゃんと眠れてへんでしょ。顔に出てますわ。」
「寝ようとすると、咳き込んでしもてな。」
「とりあえず、ベッドに座っといて下さい。」
銀をベッドに座らせると、財前は持ってきたものを整理する。咳が出るときに乾燥は大敵
だと、持ってきた何本かのスポーツドリンクを枕元に置いた。コップに入れる手間を省く
ため、500mlのペットボトルを数本用意していた。
「ひとまず、飲み物はここに置いておきますんで。」
「あっ、えっと・・・おおきに。」
「あとこれ、咳に効くらしいっスわ。一応、味見してみたんスけど、確かに効きそうな感
じでした。」
そう言いながら、財前が銀に差し出したのは、ハチミツ大根であった。ネットで咳が出て
るいるときに効く食べ物を検索して出てきたものだ。大根を小さく切って、ハチミツに浸
けるだけなので、これなら作れると思い、昨日の晩のうちに仕込み、持ってきたのだ。
「これは、ハチミツを掬って飲めばええんか?」
「そうです。大根のエキスは出てるらしいんで、大根は食べても残してもどっちでもええ
らしいです。」
「ほんなら、少しいただこうかな。」
スプーンも持参してきた財前はパッと銀にスプーンを渡す。スプーンいっぱいにハチミツ
を掬うと、ゆっくりとそれを口に運ぶ。ほのかに大根の風味のする甘い甘いハチミツ。コ
クリとそれを飲み込むと、イガイガしていた喉が穏やかに潤う。
「確かにこれは効きそうやな。これは財前はんが作ったんか?」
「えっと、はい。少しでも師範の風邪の症状がよくなってくれるとええなあと思て。」
「おおきにな。実家でもこんなに手厚く看病されたことないで。」
「それは言い過ぎやないっスか?まあ、効きそうならよかったスわ。」
先程よりもいくらか穏やかな表情になった銀を見て、財前はホッとしたように笑う。もう
数口財前の作ったハチミツ大根を堪能すると、銀はそれが入ったタッパーをベッドの横の
棚に置いた。
「師範、昨日あんまり眠れてへんのですよね?」
「せやな。」
「鼻は詰まったりしてます?」
「いや、鼻は詰まってへんな。」
「ほんならこれつけて、横向きに寝てみてください。」
財前が渡したのは、喉を潤すシートの入ったマスクであった。渡されるまま、銀はそれを
つけ、ベッドに横になる。
「寝ようとするときに咳出るときは、喉乾燥させんようにして、横向きで寝るとええんで
すって。俺が背中さすっとくんで、師範はゆっくり寝てください。」
銀のベッドに乗り上げ、横を向いて寝ている銀の後ろに移動する。そして、銀の大きな背
中を優しくさすり出した。
「ここまでしてもろて何や申し訳ないな。」
「ええんです。俺がしたくてしとるんですから。他にもして欲しいことがあったら、何で
も言うてください。」
「あっ、ほんなら・・・」
「何です?」
「完全にわがままなんやけど、こんな声やし、咳き込んでまうから、今日は般若心経が読
めてないねん。せやから、財前はんが代わりに読経してくれへんやろか?もちろん無理に
とは言わんが。」
まさかの銀の頼みに財前は少々困惑したような反応を見せる。しかし、せっかくの銀の頼
みなのだ。断るわけにはいかないと、スマホで般若心経を検索する。
「スマホで見ながらで、たどたどしくてもええですか?」
「もちろんや。読んでくれるんか?」
「そりゃ師範の頼みなんで。ほんなら・・・」
スマホを見ながら、財前は般若心経を読む。たどたどしくはあるが、大好きな財前の声で
紡がれる般若心経が銀にとってはこの上なく心地よく、咳き込むことなく眠りに落ちてい
く。背中をさすりながら、すーすーと寝息が聞こえてくるのに気づき、財前はホッとする。
(師範、ちゃんと眠れたみたいやな。よかった。)
銀は寝てしまったが、もう少し般若心経は読んでいてあげようと、財前は小さな声で読経
を続けた。
銀がぐっすりと眠り込んでいる間に財前は銀の部屋を出て、別の部屋を訪ねる。
コンコン・・・
「はーい。あれ?財前?何で寮にいるとね?」
「師範が風邪引いとるって聞いて看病しに来たんスよ。師範に夕飯作ってあげたいんで、
ココのキッチンの使い方教えてくれません?」
財前が訪ねたのは同じ寮に住んでいる千歳の部屋であった。
「よかよ。ばってん、俺はそんなにキッチン使ったことなかばい。まあ、この時間ならご
飯とか炊けてるはずだけん、自由に使っていいと思うばい。」
寮内では予め用意される食事を食べるものもいれば、自炊するものもいる。財前に頼まれ、
千歳は寮のキッチンへ案内する。あまり使ったことはないと言うわりには、千歳はキッチ
ンに置いてあるものの場所を詳しく把握していた。
「あんまり使ってない言うとったのに、メッチャ詳しいっスね。」
「桔平がこっちに遊びに来たときに、飯作ってもらうからかもしれんね。桔平に聞かれる
から覚えたばい。」
「なるほど。そういうことっスか。」
それは納得のいく理由だと、財前はそう返す。
「銀さんの風邪は、結構ひどいとね?」
「熱とかはないみたいなんスけど、咳が結構出るみたいっスわ。それで昨日あんまり寝れ
てなかったみたいなんですけど、今はぐっすり眠ってます。」
「財前は優しい彼女のごたる。銀さんもきっと嬉しく思ってるばい。」
「別にそんなつもりやないっスけど。」
千歳にそんなことを言われ、財前は若干照れたような反応を見せる。
「キッチンの使い方教えてくれてありがとうございました。もう大丈夫です。」
「手伝わなくてもよかと?」
「橘さんが料理作るとき手伝うんスか?」
「いや、手伝わんばい。」
「ほんなら、ええです。まあ、俺もそんなに難しいもん作れないですけど。」
「あはは、ほんじゃ、俺は部屋に戻るばい。」
「はい。ありがとうございます。」
ひらひらと手を振ると、千歳は自分の部屋へと戻って行く。少しでも銀に元気になっても
らおうと、財前はスマホを片手に料理をし始めた。
夕食を作り終え、財前が銀の部屋に戻って来たタイミングで銀は目を覚ます。
「あっ、師範、起きました?」
「財前はん?あっ・・・ワシ、寝てたんか。」
「よう眠れたようでよかったっスわ。気分はどうです?」
「うむ。だいぶようなった気がするわ。」
ぐっすりと眠れたことで、喉の違和感も咳の症状もだいぶ治まっていた。
「夕飯準備したんスけど、食べれそうっスか?」
そんなことを言う財前の手元には、二人分の食事が用意されていた。
「財前はんが作ってくれたんか?」
「一応。けど、あんまり凝ったもんは作れんくて、おにぎりとスープと茶碗蒸しくらいな
んスけど・・・」
「おおきに。今のワシにとってはご馳走やで。」
恥ずかしそうにしている財前の前に座り、銀は嬉しそうに笑う。
「ほな、いただきます。」
「いただきます。」
どちらも手を合わせ、食べる前の挨拶をする。財前の持ってきてくれたマスクを外すと、
まずはおにぎりを口にした。
「梅おにぎりか。ええな。」
「味、大丈夫っスか?おにぎりとかも滅多に作らないんで・・・」
「美味いで。形も綺麗やし、財前はん料理上手やな。」
「こんなんで褒められとったら、ホンマに料理上手な人に怒られますわ。」
銀に褒められ、財前は恥ずかしそうにそう返す。財前が作ってくれた料理をもっと味わい
たいと、銀は今度はスープを口に運ぶ。
「卵がふわふわで、優しい味やな。これも美味いで。」
「ありがとうございます・・・茶碗蒸しはその・・・あんまり具がなくて玉子豆腐みたい
になってしもたんですけど・・・」
そう言われて銀は茶碗蒸しも食べてみる。確かに具は少ないのだが、出汁のきいたその味
は非常に銀好みの味であった。
「うむ、なめらかな舌触りで味もワシ好みや。ホンマにおおきにな、財前はん。」
料理と言ってよいのか分からないような料理を全て褒めてくれる銀に、財前はきゅんとし
てしまう。しかし、そんな財前以上に、心を込めて財前が作ってくれた料理を口にした銀
は、この上なくときめいていた。
「休みの日やのに、こないにワシの面倒みてくれてホンマに感謝しとるで。」
「無理矢理押しかけてもうたみたいですいません。」
「初めは戸惑ったが、財前はんのおかげでよう眠れたし、こないに美味しい夕食も食べれ
とる。財前はんが今日来てくれてホンマによかった。ワシ一人やったら、まだ寝込んでた
かもしれん。」
「迷惑やなかったですか?」
「もちろんや。ホンマおおきにな。」
「よかった。」
ぐっすり眠り、財前の作った美味しい夕食を食べ、銀の体調はかなりよくなってきていた。
そんな銀を見て、財前ははにかむような笑顔でそう呟く。残っていた夕食を完食し、銀は
財前の買ってきてくれたスポーツドリンクを飲む。
(ホンマに今日は財前はんに助けられたわ。)
「夕飯も食べ終わりましたし、これ片付けたらそろそろ帰りますね。その方がゆっくり休
めますよね。」
だいぶ体調がよさそうに見える銀を前に財前はそう言いながら立ち上がる。その言葉を聞
いて、銀は反射的に財前の手を掴んだ。
「師範?」
「あっ・・・いや、すまん・・・」
「どないしたんですか?」
「こんなこと言うたら、財前はんを困らせてしまうかもしれへんのやけど・・・」
「ええですよ。言うてください。」
「帰って欲しくない。」
銀らしくない言葉を聞いて、財前は驚きつつも嬉しそうに口元を緩ませる。
「まあ、風邪引いてるときは人恋しくなりますもんね。しゃーないっスわ。」
「すまん。」
「謝らんでもええです。ほんなら、今日は師範のとこに泊まるって連絡入れときますわ。」
「ええんか?」
「だって、師範は俺に居て欲しいんでしょ?」
ニヤッと笑いながら、財前はそんなことを言う。こういう表情もたまらないなあと思いつ
つ、銀は素直に頷く。
「師範がはよ元気になるよう今日も明日もぎょーさん看病したりますわ。」
銀に頼られるのが嬉しくて、財前は自信満々な雰囲気でそう口にする。財前がいればきっ
と風邪も早く治ってくれるだろうと思いながら、銀も嬉しそうに笑った。
休みの間、財前につきっきりで看病してもらったため、月曜日の朝には銀の風邪はすっか
り完治していた。さすがに月曜日は学校があるので、財前は昨日の夜に帰ってもらったが、
かなり長い時間財前と過ごすことが出来、銀の心と身体はいつも以上に調子がよかった。
「おはよう、銀さん。風邪はよくなったと?」
「おはようさん。風邪はもうすっかりよくなったで。」
寮の玄関で千歳と会い、銀と千歳はそんな会話を交わす。確かに元気そうだと、千歳は銀
の様子を見て安心する。
「財前の作ったご飯は美味しかったと?」
唐突な千歳の質問に銀は驚いたような反応を見せる。
「何で知ってはるん?」
「銀さんにご飯を作ってあげたいって、キッチンの使い方を聞きに俺のところに来たばい。
財前はほんなこつ銀さんには優しかねぇ。」
「そうなんか。ホンマにこの休み中は財前はんの世話になったわ。財前はんの作ってくれ
た食事もかなり美味かったで。」
嬉しそうにそう話す銀を見て、千歳は惚気られてるなーと苦笑する。
「財前は銀さんのよか彼女ばい。」
「彼女という表現はどうかと思うが・・・まあ、せやな。」
「はは、銀さんにそう認めさせるなんて、財前はすごかねー。」
自分の言ったことに同意する銀の言葉に、千歳は楽しそうに笑いながらそんなことを言う。
「お礼をしたいと思うんやけど、何がええと思う?」
「財前に?んー、銀さんからってだけで、財前は喜ぶ気がするばってん、やっぱり善哉が
よかち思うばい。」
「ほんなら、今日の放課後にでも甘味処に誘ってみるか。」
「銀さんはほんなこつ財前のこと好いとおね。」
財前のことを考えて楽しそうにしている銀に、千歳はからかうような口調でそう言う。そ
んな千歳の言葉に、銀は照れながらも頷いた。
「・・・せやな。」
「そんな反応されると、こっちが照れるばい!あー、俺も桔平に会いたか〜。」
銀の惚気にあてられ、千歳は思わずそう叫ぶ。銀は放課後のことを考え、千歳はスマホで
橘にメッセージを送りながら、寮から学校までの道のりをゆっくりと歩くのであった。
END.