穏やかな暖かさが漂うある春の日。宍戸は跡部と共に春色に染まっている山の中に来てい
た。そこは跡部の私有地であり、春の代名詞とも言える桜が辺り一面に生えているが、花
見客などは一人もいない。
「おー、すげぇ。満開だな。」
「なかなかいい景色だろ?あいつらも連れてきてやるつもりだが、まずはテメェと見てお
きたいと思ってな。」
「みんなでの花見の下見的な感じだな!」
「まあな。とりあえず、軽く散歩でもするか。」
「おう!」
辺り一面に咲き乱れている桜の花を見て回ろうと、二人は歩き出す。
「やっぱ、桜っていいよなあ。」
「そうだな。こういうふうに四季が楽しめるってところが日本のいいところだよな。」
小学生の頃、イギリスの学校に通っていた跡部は、しみじみとそんなことを口にする。イ
ギリスでも桜は咲くが、日本のようにお花見をするというような習慣はない。幼い頃から
海外で暮らしていた跡部であるが、桜に対しては実に日本人らしい感情を持ち合わせてい
た。もちろん宍戸も桜やお花見は大好きであった。
「桜は綺麗だけど、今日はあんまり天気がよくないのが残念だな。」
「雨が降ってないだけマシだろ。それにこんな天気にピッタリの言葉があるんだぜ。」
春らしく暖かい気候であるが、今日の天気は薄い雲が空全体を覆っていた。それほど分厚
い雲ではないため、満開の桜を通して見る空は、うっすらと桜色に染まっているように見
えた。
「へぇ、どんな言葉だよ?」
「こんなふうに桜が咲いているような春の日に、空が薄く曇っている天気は、『花曇り』
っていうんだぜ。」
「花曇りか・・・」
跡部に教えてもらった言葉を呟きながら、宍戸は空を見上げる。たくさんの花で霞がかか
ったように見えるその空は、まさに『花曇り』という名にふさわしい空であった。
「そう言われると曇ってる空が、ピンク色に見えてくるよな。」
「花の色が移ってな。」
「それならこんな天気も、花見にはいいかもなー。」
『花曇り』というなかなか風流な言葉を知って、宍戸はあまり良くない天気を肯定的に捉
える。先程よりもいい感じの笑顔になっている宍戸に、跡部はふっと顔を緩ませる。
「もう少し、奥の方にも行ってみようぜ。」
「ああ。」
桜の木を見上げながら、再び二人は歩き出す。一際大きな木が密集してるところまで来る
と、跡部は足を止めた。
「ここらへんの木は他のところよりたくさん咲いてる気がするな。」
「確かに。本当空が見えねぇくらいに花がたくさん咲いてるぜ。」
全てが桜色に見える場所で、二人はしばらくその雰囲気を楽しむことにする。と、次の瞬
間、突然強い風が吹きすさぶ。
『うわっ・・・』
二人を襲う強い風は、桜の枝を激しく揺らし、満開の桜の花びらを舞い上がらせた。大量
に舞い上がった桜の花びらは辺り一面を文字通り桜色に染める。風が吹いたために、とっ
さに目を閉じた跡部と宍戸であったが、目を開くとその光景に言葉を失う。
「すげぇ・・・」
しばらく言葉が出なかった宍戸であったが、ふとそんな言葉が口から漏れる。宍戸のそん
な呟きに跡部も頷くような言葉を放った。
「ああ・・・」
息をすれば、花びらを吸いこんでしまうのではないかと思うほどの桜吹雪の中、二人はた
だただ立ちつくす。あまりにその光景が現実離れしているので、宍戸は無意識に跡部の手
をしっかりと握っていた。
「どうした?」
「へっ?何が?」
「そんなにしっかり俺の手を握って。テメェから手を握ってくるなんて珍しいなと思って
よ。」
跡部にそう指摘され、宍戸は自分が跡部の手を握っていることに気づく。本当に無意識に
握っていたようで、宍戸は驚いた様子でパッと手を離した。
「あっ・・・」
「別に離せとは言ってねぇぜ。テメェの手は温かくて気持ちいいしな。」
「別に握ってたくて・・・握ってたんじゃねぇよ。」
「ふっ、ならどうして俺様の手を握ってたんだ?」
「・・・手が、勝手に。」
うつむきながら宍戸は呟く。手が勝手にと言い訳をする宍戸に、跡部は声を殺して笑った。
「無意識にってわけか。」
「・・・・・・」
恥ずかしさから黙って頷く宍戸の手を今度は跡部が握る。ぎゅっと手を握られ、宍戸は跡
部の顔を見た。
「何で・・・」
宍戸が言葉を紡ぎ終える前に、跡部はその答えを口にした。
「俺がこうしてたいからだ。テメェの理由よりは分かりやすいだろ?」
「確かに分かりやすいけどよ・・・」
「嫌だって言っても離さねぇぜ。こうしてた方がテメェと一緒にいるって感じがするしな。」
あまりに率直な跡部の言葉に、宍戸の顔は桜色に染まる。宍戸の顔が染まるのを見て、跡
部はからかうような口調でそれを指摘する。
「顔、赤いぜ。」
「そ、そんなことねぇよ!」
「俺様に手握られんのが、そんなに恥ずかしいのか?」
「べ、別に恥ずかしくなんてねぇし!顔が赤く見えるのは、この桜のせいだろ。空にある
雲だってピンク色に見えるんだからよ。」
「それもあるかもしれねぇな。顔も桜色で、髪も服も桜まみれになってるけどな。」
桜吹雪はだいぶ弱まっていたが、まだひらひらと二人の周りを舞っている。宍戸の髪には
桜の花びらがいくつもくっついており、まるで髪飾りのようになっていた。
「跡部だって、いっぱい花びらついてるぜ。」
「そりゃ、こんだけ桜が舞ってたらな。」
髪についた桜の花びらをつまむかのように、跡部は宍戸の髪に触れる。繋いだ手に優しく
髪に触れる手。心臓の鼓動が速くなり、宍戸の顔の桜色だけはもう少し濃い色になる。
「桜で彩られてるテメェも悪くねぇ。」
「なら、花びら取る必要ねぇんじゃねぇの?」
「取ろうとなんて思ってないぜ。手を伸ばしたのはこうするためだ。」
そう言いながら、跡部は宍戸の頭をくしゃっと撫でる。頭を撫でられる感覚に、宍戸は何
とも言えない心地よさを感じる。
(なんか・・・気持ちいい・・・)
うっとりとして、宍戸は跡部に撫でられる感覚に浸る。まるで喉の下を撫でられている猫
のような宍戸に、跡部は胸がきゅんとしてしまう。
「テメェ、猫みてえだな。」
「猫?」
「頭撫でてやって、すげぇ気持ちよさそうな顔して、猫みてぇで可愛いぜ。」
宍戸のその顔が可愛らしくて仕方ないと、跡部は顔を緩ませる。可愛いと言われるのは、
腑に落ちないが、今はそれよりも跡部に撫でられる感覚をもっと味わいたいと宍戸は思う。
「んー、猫みたいかどうかは自分じゃよく分かんねぇけど、跡部に頭撫でられるのは気持
ちいいと思うぜ。」
「なら、もっと撫でてやるよ。」
宍戸が素直に気持ちいいと口にするので、跡部は宍戸が満足するまで撫でてやる。心ゆく
まで跡部に撫でてもらうと、宍戸は満足気な溜め息をついて、跡部の顔を上目遣いで見上
げた。
「満足か?」
「おう。」
「風もやんで、桜吹雪も落ち着いてきたし、他の所に移動するか。」
「そうだな。」
宍戸の頭からは手を離したが、宍戸の手を握っている手は離しはしない。跡部が手を繋い
だままの状態で他の場所へ移動しようとすると、宍戸はその動きを一旦止めた。
「どうした? まだここにいたいのか?」
「いや・・・そうじゃなくてな・・・」
はっきりとしたいことを言わず、宍戸は繋いでいる方の跡部の手を引き、自分の方へ引き
寄せる。そして、跡部の唇に軽く触れるだけのキスをした。
「テメェの方からキスしてくれるなんて、どんな風の吹き回しだ?」
「ちょっとしたくなっただけだ。別に大した意味なんてねぇよ。」
「ちょっとしたくなっただけねぇ。テメェにしては素直でいい回答なんじゃねぇの?」
何となくしたくなったのでしてみたものの、予想以上に恥ずかしくて宍戸はそれ以上何も
言えなくなっていた。一方、跡部は宍戸にキスをしてもらえたのが嬉しくて、かなりご機
嫌な様子でその顔に笑みを浮かべている。
「行くぞ、宍戸。」
「お、おう。」
恥ずかしがってうつむいている宍戸の手を引き、跡部は歩き出す。風が吹くたびに桜の木
はピンク色の花びらを散らし、二人の目を楽しませる。
「やっぱ、散ってるときが一番綺麗だよな。」
「桜がか?」
「ああ。咲いてるのももちろん綺麗だけど、俺はこんなふうに花びらが空中に舞ってる方
がもっと綺麗だと思うんだよなあ。」
「それは俺も思うぜ。昔の人もそう思ってたみたいだしな。散るからこそ桜は美しいって
句が残ってるくらいだしよ。」
「あー、確かに。今も昔もこういう感覚って変わらねぇんだな。」
「千年前に生きてた人間と同じ感覚を持ってるってことは、きっと俺達にもその血が流れ
てるんだろうな。」
「かもしれねぇな。」
遥か昔の人が桜を見て感じていたことを自分達も感じられる。それはなかなか素敵なこと
だと二人は顔を見合わせて笑った。ピンク色の空気が二人の周りを覆う中、宍戸は跡部の
手を握ったまま、その名を呼ぶ。
「跡部。」
「何だ?」
「ここには、他のメンバーとのお花見でもまた来るけどよ・・・」
「ああ。」
「来年もまた今みたいに二人で見に来れたらいいな。」
照れ笑いを浮かべ、そんなことを言う宍戸に、跡部は当然だと言わんばかりの表情で頷く。
「テメェがそうしたいと思うなら、いくらでも叶えてやるよ。」
そんな跡部の言葉を聞いて、宍戸の顔は満開の桜のようにほころぶ。宍戸が嬉しそうな顔
を見せれば、跡部の胸はそれ以上の嬉しさと幸福感でいっぱいになる。まだまだ時間はあ
るので、もうしばらく二人だけのお花見を楽しもうと、跡部と宍戸は桜の咲く山道をゆっ
くりと歩き続けた。
花曇りの空の下。たくさんの桜に囲まれながら、二人の心はどこまでも春色に染め上げら
れるのであった。
END.