Lip balm

「いてっ・・・」
ほとんどの部員が帰ってしまっているテニス部レギュラー部室で、宍戸は小さく声を上げ
る。そんな宍戸の声を聞き逃すことなく、着替え途中であった跡部は何事かと尋ねた。
「どうした?」
「いや、別に大したことじゃねぇよ。唇が乾燥して、ちょっと切れちまっただけだ。」
唇に触れると指に軽く血がついたので、宍戸はそう答える。室内にいれば、加湿器である
程度の湿度が保たれているものの、外でテニスをしていれば乾燥は避けられない。
「リップクリームとか持ってねぇのかよ?」
「そんなもん持ってねぇよ。」
「仕方ねぇな。ほら、俺様の貸してやる。」
「べ、別にいらねぇよ!こんなん舐めときゃいいわけだし。」
跡部のリップクリームを借りるのは、少々気が引けると、宍戸は跡部の差し出したそれを
受け取らない。切れるほど乾いてしまっているのに、何を言っているんだと跡部は呆れ顔
だ。
「舐めると余計ひどくなるぞ。」
「うるせぇな。ほっとけよ。」
「ったく、手間のかかる奴だな。」
そう言いながら、跡部は手にしているリップクリームを自分の唇に塗る。いつも使うより
も少し多めに塗ると、宍戸の肩をぐっとロッカーに押さえつけ、そのままキスをする。
「んっ!?・・・んんっ!!」
自分の唇に塗ったリップクリームが宍戸の唇に移るように、しっかりと唇をくっつけ、し
ばらくの間そのままの状態を保つ。いきなりキスをされ、宍戸は何とか跡部を離れさせよ
うとするが、予想以上に跡部が強い力で押さえつけてくるので、それは叶わなかった。十
分に宍戸の唇が潤うと、跡部は宍戸を解放する。
「い、いきなり何しやがる!!」
「お前が素直にリップクリームを受け取らないからな。つけるにはこうするしかねぇだろ。」
「意味分かんねぇ。つーか、部室でそういうことすんじゃねーよ、アホ。」
顔を真っ赤にしながら、宍戸は文句を言う。跡部のつけているリップクリームはローズの
香りがついているため、宍戸の唇にはほのかにその匂いが残る。
「・・・変な味だし。」
「味はしねぇだろ。匂いは少しあるかもしれねぇけどな。こっちは血の味のキスだったん
だぜ?」
「お前が無理矢理しといて文句言うな!!」
「とにかく、ちゃんとリップクリームは塗っとけ。持ってねぇんなら、新しいやつやるか
らよ。」
使いかけであるのを嫌がっていると思い、跡部は鞄の中から未開封のリップクリームを出
し、宍戸に渡す。また、あんなことをされては敵わないので、宍戸はとりあえずそれを受
けとった。
「一応、テメェの好きそうな匂いにしてやったから、一回は使えよ?」
「・・・・おう。」
その場では開けずに、宍戸はもらったリップクリームをポケットに入れる。
「さてと、帰る準備も終わったし、帰るぞ、樺地。」
「ウス。」
「っ!?樺地まだ残ってたのかよ!?」
「ああ、当然だろ。」
「樺地いんのに、あんなことするな!!」
「別に構わねぇだろ。なあ、樺地。」
「ウス。」
まさか樺地も残っているとは思っていなかったので、宍戸はドギマギしてしまう。しかし、
樺地からすれば、こんなことは日常茶飯事なので、特に気にしていなかった。
「お前もさっさと用意して、帰れよ。」
「分かってるよ!お前のせいで、準備が遅くなってんだからな!!」
「じゃあ、俺達は先に帰るぜ。また、明日な。」
宍戸を残して、跡部は樺地と共に部室を後にする。一人残されたロッカールームで、宍戸
は大きな溜め息をつく。
「あー、もう、何でこんなドキドキしてんだよ。本当、ムカつく・・・」
跡部に心を乱されているのが何となく悔しくて、宍戸はそんなことを呟く。とにかく、自
分も早く帰ろうとロッカーの中から鞄を出し、それを肩にかけ、扉の方へと向かった。

(匂いはそんな悪くねぇし、一応、塗っとくか。)
跡部が宍戸に渡したリップクリームはミントの香りのものであったため、宍戸は嫌がらず
にちょこちょことそれを使っていた。トイレのついでに塗っておこうと鏡を見ていると、
横から声をかけられる。
「宍戸がリップ使ってるなんて、珍しいね。」
声をかけたのは滝であった。跡部や自分は普段から使っているが、宍戸が使っているのは
意外だと少し驚いたような反応を見せる。
「この前乾燥して、唇が切れちまってよ。そしたら、跡部に強制的に渡された。」
「ふーん。でも、強制的に渡されたわりにはちゃんと使ってるんだね。」
「まあ、唇乾燥しなくなるし、コレについてる匂いも割と好きだからな。」
宍戸の持っているリップクリームからミントの匂いがするので、滝は納得する。
「さすが跡部だね。宍戸の好みを熟知した上でのプレゼントってわけか。」
「プレゼントなんてたいそうなもんじゃねぇだろ。別に欲しいなんて言ってないし、それ
に・・・・」
これをもらったときのことを思い出し、宍戸は顔を赤くする。
「それに?」
「べ、別に何でもねぇよ!!」
「何か顔赤いけど?跡部からもらったリップだから、跡部にキスされるの思い出しちゃっ
たとか?」
「ばっ・・・んなわけーねぇだろ!!」
からかうようにそんなことを言う滝に、宍戸は強く否定するような言葉を放つ。
「そこまで必死に否定するってことは図星か。」
「違うって言ってんだろ!!」
「あっ、跡部。」
「っ!!」
「なーんてね。じゃ、俺、教室戻るから。」
宍戸があまりにも素直な反応をしてくれるので、滝はくすくす笑いながらトイレを出る。
滝にからかわれたことに若干イライラしつつ、どれだけ跡部のことを意識しているのだろ
うと、ドキドキしながらリップクリームをポケットにしまった。

それから少し経った休日前の夜、宍戸は跡部の家に泊まりに来ていた。事を終わらせた後、
ベッドの上でまどろんでいると、跡部が何かを取るためにベッドから下りた。
「どうしたんだ?」
ベッドの上で体を起こし、宍戸はそう尋ねる。気にするなと言った後、跡部は引き出しを
開け、何かを持ってくる。ベッドに戻ると、その持ってきたもの宍戸の前で開けた。
「今使ってるやつが、そろそろなくなりそうだから、開けておこうと思ってな。」
「俺と同じやつだな。」
「前使ってたのは、お前があんまり好きな匂いじゃねぇって言ってたからな。今回はこっ
ちにしといたぜ。何だかんだで、ちゃんと使ってるみてぇだからな。」
「なっ!?そんなこと・・・」
青い箱から出したリップクリームのふたを開けると、跡部はそれを自分の唇に塗る。そし
て、宍戸の言葉を遮るように自らの唇で、宍戸の口を塞いだ。事を終えた後ということも
あり、宍戸は反射的に口を開いてしまう。そうされたら、もっと深いキスをしてやらなけ
ればと跡部はゆっくりと宍戸の舌に自分の舌を絡めた。
「ぅ・・・んっ・・・んんぅ・・・・」
ミントの香りに混じる跡部の味に宍戸の胸はひどく高鳴る。こんなことをされては、また
変な気分になってしまうと思っていると、満足したのか跡部の口が離れる。
「ハァ・・・」
「そんなやらしい顔して、またしたくなっちまうぞ?」
「お前のせいだろ!!」
それはこっちのセリフだと言わんばかりの勢いで、宍戸は跡部にそう返す。いつも通りの
反応だなあと、跡部は笑いながら言葉を続けた。
「今のキス、ちゃんとミントの匂いがしただろ?」
「へっ?あ、ああ・・・」
「だから、分かるんだよ。ミントガムを噛んだ後はまた違う感じだしな。」
「うっ・・・」
確かにこんなにもハッキリと匂いがするならば、バレても仕方ないかと宍戸は納得してし
まう。
「今度からはキスする前に必ずこれ塗っといてやるよ。」
「な、何でだよ・・・?」
「ミント好きなんだろ?それに・・・」
思わせぶりな笑みを浮かべ、跡部は言葉をためる。そして、今しがた開けたばかりのリッ
プクリームを宍戸の唇に塗ってやる。
「そうしておけば、お前はリップクリームを使うたびに、俺様とのキスを思い出すように
なるからな。」
「っ!!」
そんなことを言われ、宍戸の顔は火がついたように赤く染まる。少しべたつく唇とミント
の香り。速くなる鼓動とともにそれらが脳裏に焼きつく。
「ふざけんなよ。そんなこと言われたら使えなくなっちまうだろ。」
「アーン?余計に使いたくなるの間違いだろ。」
「そ、そんなことねぇし。」
「現に俺がそうだからな。」
「えっ・・・?」
意外なことを跡部が言うので、宍戸は思わず聞き返してしまう。
「お前が俺のあげたリップクリームを使ってくれてるからよ、お前と同じコレを使うと、
お前とキスする感覚がよみがえって、すげぇイイ気分になれるぜ。」
「な、何言って・・・」
「お前は俺様とのキスは嫌いなのか?」
「別に・・・嫌いじゃねぇけどよ。」
「ふっ、正直でいいぜ。」
何だか跡部ばかりいい思いをしている気がして、宍戸は少し悔しくなる。自分だって、跡
部とキスをするのは好きだし、自分の好きな匂いでそれが思い出せるのなら、悪いことで
はないと分かっている。しかし、好きすぎるが故に、そんなふとしたことでその感覚まで
も思い出してしまうのは、ドキドキしすぎて身がもたないと思ってしまうのだ。
「俺は・・・跡部と違うから・・・・」
「違うっつーのはどういう意味でだ?」
「感覚っつーか、もう全部だけど・・・リップ塗るたびに、跡部とのキス思い出してたん
じゃ、恥ずかしくて、ドキドキしすぎて・・・マジで無理。」
本当に恥ずかしいようで、宍戸の顔は耳まで赤く染まり、跡部と目を合わせられないでい
る。そんな宍戸がこの上なく可愛いと、跡部の胸はひどくときめく。
「無理なほど、俺様のことが好きなのかよ?」
「・・・そうじゃなきゃ、こんなことで悩まねぇよ。」
完全に認めるような答えに、跡部の顔は自然と緩む。
「まあ、今の宍戸の言葉聞いて、自分でも信じられねぇくらいにドキドキして、半端ねぇ
くらい嬉しくなってんだから、おあいこだろ。俺をこんな状態にさせられるのは、お前だ
けなんだからな。」
そう言いながら、跡部は宍戸の額にちゅっと口づける。その言葉がどうしようもなく嬉し
くて、宍戸の胸はきゅんとする。
(本当ずりぃ・・・)
「ま、どうしても無理っつーんなら、そんなに無理に使わなくてもいいけどな。」
「・・・・使わねぇと、もったいねぇだろうが。」
「無理しなくていいんだぜ?」
「してねぇよ!跡部がくれたやつだし、俺の好きな匂いだし・・・跡部とのキス思い出し
ちまうのも・・・・本当は嫌じゃねぇし。」
「ここでそんなデレるとか、反則だろ。」
予想外の宍戸の言葉に跡部の顔は赤くなる。少し前にし終えたばかりだが、宍戸のあまり
の可愛さにもう一度したくなってしまう。
「お前が俺を煽るようなことばかり言うから、本気でもう一回したくなっちまった。」
「はあ!?」
「責任取れよな。」
「ちょっ・・・うわっ!!」
やる気になった跡部に押し倒され、宍戸はボスンと頭を枕に沈める。仕方がないなあと思
いつつ、宍戸的にも今の流れでこうなることはそこまで嫌だと思っていないので、跡部の
好きにさせることにした。
(こんなんじゃ、キスどころじゃなくて、もっといろいろ思い出しちゃいそうだぜ。)
そんなことを考えながら、宍戸はぎゅっと跡部の首に腕を回すのであった。

                                END.

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