「鬼を見た(改)」の段

ゴロゴロ・・・ヒュー・・・ヒュー・・・
風の強い雨の夜、伏木蔵は寝巻きで廊下を歩いていた。医務室に授業で使う筆を忘れてし
まい、どうしても取りにいかなくてはならなくなってしまったのだ。
「ううー、夜の廊下は怖いよ〜。」
雨だけではなく雷も鳴っているため、伏木蔵はびくびくしながら医務室へ続く廊下を歩い
ていた。雷が鳴るたび、風がうなりを上げるたび、伏木蔵は立ち止まってしまう。
「やっぱり、明日の朝取りに行こうかな・・・。でも、今取りに行かないと今日の宿題出
来ないし・・・・」
そんなことをぶつぶつ呟いていると、突然後ろから誰かに声をかけられた。
「おい。」
「わあああっ!!」
あまりにも驚いて、伏木蔵はその場にしゃがみ込んでしまう。突然大きな声を上げられ、
声をかけた方もかなり驚いた。
「い、いきなり叫ぶなよ、伏木蔵。ビックリするだろ。」
「えっ・・・?」
聞き慣れた声を聞いて、伏木蔵はゆっくり顔を上げる。そこには同じ保健委員の先輩、左
近が立っていた。
「左近先輩・・・・」
「何やってんだよ?こんなところで。」
「医務室に筆忘れてきちゃって・・・取りに行こうと思ってるんですけど・・・こんな風
と雨だから・・・怖いんです。」
今にも泣いてしまいそうな表情で、伏木蔵はそう訴える。忍者がこの程度の雨と風を怖が
ってどうすると思いつつも、左近はそんな伏木蔵を可愛いと思ってしまう。
「仕方ないなあ。そんなに怖いならぼくがついて行ってやるよ。」
「ほ、本当ですか・・・?」
「ああ。だんだん雨も風も強くなってきてるし、何かあったら大変だろ。」
「ありがとうございます。」
左近と二人ならば、少しは怖さも抑えられると伏木蔵はほんの少しだけ笑顔になる。あま
りに素直な伏木蔵の態度に左近はうっとしてしまう。
(やっぱ、可愛いな・・・)
そんなことを思いながら、左近が医務室に向かって歩こうとすると、伏木蔵の手が左近の
寝巻きの袖を捉えた。
「どうした?」
「あ、あの・・・暗くて怖いんで、手繋いでもらっちゃダメですか?」
「べ、別に構わないけど・・・」
おどおどしながらそんなことを尋ねる伏木蔵に、左近は少し照れながら手を差し出す。こ
れならもっと安心出来ると、差し出された手を握りながら、伏木蔵はホッとしたような顔
になった。
「左近先輩はやっぱり優しいですね。」
「そ、そんなことない。」
「ぼく、左近先輩と一緒の委員会でよかったです。」
ぎゅっと手を握りながら、伏木蔵は嬉しそうにそんなことを言う。ここまでハッキリ褒め
られると照れくさいなあと、左近はぽりぽりと頬を掻いた。と、突然大きな雷がかなり近
くに落ちる。
ピカっ!!ゴロゴロゴロ!!
「うわあっ!!」
「うわっ・・・」
さすがにこれには驚き、左近も思わず声を上げてしまう。当然のことながら雷の苦手な伏
木蔵は目をつぶって左近に抱きついた。
「だ、大丈夫か?伏木蔵。」
「うー、雷・・・怖いですよ〜。」
「も、もう少しで医務室だから。少し早く歩くか。」
「は、はい。」
大きな雷が鳴ったのをきっかけに雨も風も先程より強くなる。さすがにここまで激しくな
ると怖いなあと左近も思い始めていた。

やっとのことで医務室に辿り着いた二人だが、医務室は誰もいないのか灯りがつけられて
いなかった。暗い医務室はなかなか怖いもので、二人は医務室の障子を開けるのを躊躇っ
てしまう。
「医務室、真っ暗ですね・・・」
「ま、まあ、この時間だしな。」
ドキドキしながら、障子に手をかけようとする左近だがふと嫌な予感がする。嫌な予感と
いうよりはハッキリとした気配だ。真っ暗な医務室には誰もいないはずなのだが、何故か
左近はその中に人の気配を感じていた。
「・・ぁ・・・やああぁっ・・・・!」
『っ!!』
誰もいないはずの医務室の中から誰かの声が聞こえる。二人は恐怖に心臓をドキドキさせ
ながら、顔を見合わせた。
「な、中に・・・誰か居るんですかね・・・?」
「居るとしたら・・・伊作先輩とかだろ。」
「で、ですよね。」
「い、痛っ・・・うあ・・・ああぁっ・・・・」
医務室の中から聞こえる声は、確かに伊作の声のようであった。しかし、何か様子がおか
しい。中では何が起こっているのだろうと、確認したい気持ちと怖くてその場から逃げ出
したい気持ちが、二人の中で交差する。
「伊作先輩、どうしたんでしょう?」
「と、とにかくここを開けて確かめてみないと・・・」
「でも、何か怖いですよぉ・・・」
「けど、確認しないわけにはいかないだろ。」
勇気をふりしぼり、左近は障子に手をかける。そして、その障子をほんの少しだけ開けた。
その瞬間、一際大きな稲光が医務室の中を照らし出す。
ピカッ・・・!!
稲光に照らされた医務室の中に二人が見たものは、角の生えた黒い影とその影に襲われて
いる伊作の姿であった。ほんの一瞬しか見えなかったが、二人には伊作を襲っているのが
恐ろしい鬼であるようにしか見えなかった。
『うわああぁっ!!』
ゴロゴロゴロっ!!
二人の叫び声と大きな雷の音がほぼ同時に響く。あまりの恐怖に、左近も伏木蔵も思わず
その場から逃げ出してしまった。

とにかくどこかの部屋に逃げ込みたいと、二人は医務室のすぐ側にある空き部屋に逃げ込
んだ。暗い部屋の中心で、お互いの体にしがみつき二人はガタガタと震える。
「な、何で・・・医務室に鬼がっ・・・・」
「分からない。もしかしたら、見間違いかもしれないし・・・」
「でも、あれはどう見ても鬼でしたよ。」
左近も伏木蔵と同じ光景を見ているために、伏木蔵の言うことにきっぱりとは反論出来な
かった。外では激しい雨と風、それに雷がひどく鳴っている。部屋は真っ暗で、お互いの
顔も見えるか見えないかの状態で、二人の不安感は極限まで高まっていた。
「ひっ・・・ひっく・・・」
「な、泣くなよ、伏木蔵。」
「だって、怖いですよぉ・・・・」
「大丈夫だって。きっと、大丈夫だから・・・」
同じものを見てしまったのだから、左近も怖くないはずがなかった。しかし、自分は伏木
蔵よりも先輩である。ここで自分が怖がってはいけないと、左近は伏木蔵をなだめるよう
に力強くその小さな体を抱きしめた。
「さ、左近先輩・・・・」
「何だ?」
「伊作先輩・・・食べられちゃったりしてないですよね・・・?」
「えっ・・・!?」
「だって、伊作先輩・・・・鬼に襲われてましたし・・・・」
鬼は怖くて仕方ないが、伊作のことが心配でしょうがない。しかし、鬼が居ると分かって
いるのに、医務室へ戻るということは出来なかった。
「と、とりあえず、雨風がやむまでは、ここで大人しくしていよう。」
「伊作先輩は・・・・」
「伊作先輩だって、六年生なんだし、たぶん鬼の一匹や二匹なんとか出来るさ。」
「でも・・・学園一不運な男ですよ・・・」
「うっ・・・確かにそうだけど、やっぱり六年生にもなれば、たとえ不運でも・・・・」
ピカっ!!ゴロゴロゴロ!!
『うわあっ!!』
ヒュ――っ・・・・ヒュ――・・・・ガタガタ・・・ガタ・・・
伊作のことを話しているとまた大きな雷が近くに落ち、障子をガタガタと揺らすほどの強
い風が吹き抜ける。
「わぁーん、左近先輩〜。」
「大丈夫だ。・・・絶対、大丈夫。」
「ここにも・・・鬼が来たら、どうしましょう・・・・」
「その時は、ぼくがお前を守ってやるから。絶対にお前には手を出させない。」
「左近先輩・・・・」
自分自身、恐怖に震えながらも、左近はきっぱりとそう言い放つ。そんな左近を伏木蔵は
心からカッコイイと思った。とりあえず、鬼に気づかれないように雨風が静まるまで、こ
こでじっとしていようと、二人はお互いの体をしっかりと抱きながら、息を殺していた。

それから半刻ほど過ぎると、あれほどまでに吹き荒れていた風や雨はだいぶおさまり、雷
ももうどこか遠くへ去ってしまった。ほとんど雨がやんだのを確認すると、二人はその部
屋を出て、再び医務室へと足を運んだ。医務室の前まで来ると、伏木蔵はぎゅっと左近に
しがみつく。
「左近先輩・・・」
「あ、開けるぞ。」
怖いのを必死で堪えながら、左近は勇気を出して医務室の障子を開ける。
ガラ・・・
『誰も・・・居ない。』
そこにはもう鬼の姿はなかった。とりあえずよかったとホッとする二人だが、伏木蔵があ
ることに気づく。
「あれ・・・?伊作先輩は・・・?」
「えっ?」
「・・・伊作先輩が、居ない。」
そのことに気づいて、二人の顔は青ざめる。もっとちゃんと確認しようと、医務室に入っ
て灯りをつけ、部屋の中を見回してみるが、どこにも伊作の姿は見つからなかった。
「どうしよう・・・伊作先輩が鬼に食べられちゃった。」
「そ、そんな・・・」
信じたくはないが、鬼に襲われている様子を確かに見たのだ。鬼が今ここにいなくて、伊
作も居ないとなると、食べられてしまったとしか考えられない。そのショックと助けられ
なかったという後悔の念で、二人の目には涙が溜まってゆく。
「うわあああん、伊作せんぱーい!!」
「ぼく達がちゃんと助けに行ってたら・・・・」
先程までは、ぐっと涙を堪えていた左近であったが、こんな状況になってしまったら、も
うどうすればよいのか分からない。伏木蔵よりは先輩とは言えども、まだ二年生だ。こん
な状況にどう対応すればよいか分からず、左近も伏木蔵と同じように泣き出してしまった。
『うわあぁぁんっ!!』
二人が医務室で大泣きしているところに、廊下から誰かがやってくる足音が聞こえて来た。
「ったく、お前は声がデカすぎなんだよ。誰かに気づかれたらどうする?」
「あれは、文次郎が激しすぎるのがいけないんだろ!!」
「まあ、雷がだいぶ鳴ってたし、風も強かったからどこかに聞こえちまってるってことは
ねぇと思うけど。」
医務室であらぬことをしていた文次郎と伊作は、汚れた体を綺麗にしようと、今まで風呂
に入っていた。そのまま長屋に向かおうと思ったのだが、伊作が褌を医務室に忘れてしま
ったということで、取りに戻ってきたのだ。
「な、なあ、伊作。」
「ん?何?どうしたの?」
「医務室から、何か・・・泣き声みてぇなの聞こえねぇか?」
「えっ?」
医務室に向かって歩きながら、耳を澄ませてみると、確かに子供の泣き声のようなものが
聞こえていた。こんな時間に誰も居ないはずの医務室から泣き声が聞こえるのは少し怖い
と、伊作も文次郎も構えてしまう。
「・・・確かに聞こえるね。」
「だろ?誰か居るのか?」
「えー、こんな時間に?やだなあ、ちょっと怖い。」
そんなことを思いながらも、二人は医務室の前までやってくる。医務室の前までやって来
て、伊作はその泣き声の主が自分のよく知っているものの泣き声だということに気づいた。
「この声・・・」
ガラッと医務室の障子を開けると、そこにはぺたんと座り込みながら号泣している左近と
伏木蔵が居た。
「どうしたの!?二人とも。」
聞き慣れた声の方を振り返り、左近と伏木蔵は驚いて泣き声を止める。そこには、鬼に食
べられたと思っていた伊作が、寝巻き姿で立っていた。
「伊作・・・」
「・・・先輩?」
「こんな夜中にどうしたの?二人とも。どこか具合でも悪いの?」
目の前に居る伊作は本物だと、二人は安心感から再び涙が込み上げてくる。どちらも伊作
に駆け寄ると、ぎゅうっと抱きついて大泣きした。
『わああぁんっ!!伊作せんぱーいっ!!』
「えっ、えっ?ほ、本当にどうしたんだい?」
何故こんなに大泣きしているか理解出来ない伊作は、困惑しながら、二人にその理由を尋
ねた。
「鬼が・・・居たんです・・・」
「どこに?」
「ここに・・・」
「ここって、医務室?」
「その鬼に伊作先輩が食べられてて・・・すごく怖くて・・・ひっ・・・ひっく・・・」
「ぼくが食べられてたって、そんなことないんだけどなあ。」
鬼に食べられた覚えはないと、伊作は首を傾げる。確かに少し前まで医務室に居たが、一
緒に居たのは文次郎で、決して鬼などではなかった。しかし、文次郎と一緒に居たという
ことで、伊作はあることを思い出す。
「あっ!」
「どうした?伊作。」
「い、いや・・・鬼ってさあ・・・」
夜間訓練が終わってそのまま伊作のところへやってきた文次郎は、頭に苦無をさしたまま
であった。暗がりでそれを見たら鬼に見えないこともない。下級生二人に聞こえないくら
いの声で文次郎にそのことを伝えた。
(鬼ってたぶん文次郎のことだよ。)
(はあ!?どういうことだよ?)
(文次郎、頭に苦無さして夜間訓練してるでしょ?今日もしてるときそのままだったし。
それが影しか見えなくて鬼に見えたんじゃないかなあ。)
(うっ・・・なるほど。食べられてたってのは、してるところ見られたってことか。)
(たぶんね。本当のことは言えないし、どうしよう・・・)
(仕方ねぇ・・・俺が何とか誤魔化してやる。)
していたことがしていたことなので、本当のことは言えない。しかし、二人は本当に鬼が
出たと怖がっている。それを何とかなだめようと文次郎は伊作にしがみついている二人の
頭をそっと撫でてやった。
「今日は嵐みてぇな天気だったし、部屋も暗かったから、何かの影がそう見えたんだろ。
怖いと思ってたりしてると、そういう勘違いをしやすいからな。」
「そ、そうなんですか・・・?」
「じゃ、じゃあ、伊作先輩が食べられているように見えたのは・・・?」
「伊作のことだから、真っ暗な中で何かをひっくり返して転んだんじゃねぇのか?その影
がたまたまそういうふうに見えたとか。」
学園一ギンギンに忍者していると言われている文次郎にそんなことを言われ、二人は確か
に見間違いだったのかもしれないなあと思い始める。医務室に来るまでに、怖いという気
持ちは高まっていたし、暗い部屋の中を見たのは雷が光った一瞬だけであった。確かにそ
んな状態では、見間違いも起きるだろうと二人は文次郎の話に納得してしまう。
「それに、もし本物の鬼が出たとしても、この俺がそんな奴倒してやるよ。」
「さすが・・・戦う会計委員長。」
「頼もしいです。」
鬼が出たのではないと分かると、伏木蔵と左近は心からホッとする。やっと泣き止んだ二
人を見て、伊作も胸を撫で下ろした。

それからしばらく他愛もない話をしていた四人であったが、だいぶ気持ちが落ち着いてき
たこともあり、伏木蔵は自分が忘れ物を取りに医務室に来たことを思い出す。
「あっ、そうだ。ぼく、筆を取りに来たんだっけ。」
「筆?ああ、これのことかい?机の上にあったから、誰のかなあと思ってたんだ。」
「そうです。ありがとうございます。」
伊作から筆を受け取ると、伏木蔵はにこっと笑う。さっきまでずっと泣いていた伏木蔵を
見ていた左近はやっと笑ってくれたとホッとする。
「よかったな。伏木蔵。」
「はい。左近先輩、ありがとうございます!!」
「な、何でぼくに礼なんか言うんだよ?別に礼を言われるようなことはしてないぞ。」
「そんなことないです!左近先輩は、ずっとぼくのこと守ってくれてましたから。」
「へー、そうなんだ。さすがだね。」
「いい心がけだな。」
伏木蔵に礼を言われ、二人の六年生に褒められ、何となく恥ずかしくなり左近は真っ赤に
なる。照れてる顔も可愛いなあと、伊作はほわわんとした気持ちになった。
「今日はもう遅いし、今から長屋も戻るのもなんだから今日はココに泊まろうか。」
「えっ?いいんですか?」
「布団はあるからね。文次郎も泊まっていくだろ?」
「そうだな。別に眠れるんだったら、俺はどこでも構わないぞ。」
「二人もいいよね?」
『はい。』
にっこりとした笑顔でそんなことを言われたら断れない。たまにはそういうのもありだろ
うと、左近も伏木蔵も顔を見合せて笑った。
「じゃあ、決まりだね。今から布団敷くからちょっと待っててね。」
「あっ、そうだ。宿題しないと・・・・」
「何だよ?せっかく泊まるってことになったのに長屋に戻るのか?」
「いえ、宿題は持ってきてあるんで・・・」
どのようにしまってたのか、伏木蔵は懐から宿題を出す。まさか持って来ているとは思わ
なかったので、左近は驚きながらも苦笑した。
「せっかく筆も見つかったことだし、ぼくも手伝ってやるよ。」
「本当ですか!?ありがとうございます、左近先輩!!」
「ほら、文次郎は布団敷くの手伝って。暇してるんだろ?」
「はいはい。」
伏木蔵は左近に教えてもらいながら宿題を進め、伊作と文次郎は布団を敷く。当然のこと
ながら、二人で布団を敷いていたらすぐに敷き終わってしまうので、六年生の二人も伏木
蔵の宿題を手伝った。三人の先輩に教えてもらったことで、伏木蔵の宿題はあっという間
に終わる。
「ありがとうございます、先輩。先輩達のおかげですごく早く終わらせられました!」
「俺達が手伝ってやったんだ。ここまで完璧な宿題はねぇだろ。」
「そうだね。よーし、それじゃあみんな寝ようか。」
『はーい!』
宿題も終わったことだし、布団も敷いて眠る用意はバッチリだと、伊作はそんなふうに声
をかける。伏木蔵と左近を真ん中に寝かせ、二人をはさむような形で文次郎と伊作は横に
なった。こんなメンバーで一緒に寝ることはそうそうないので、下級生二人はドキドキし
てしまう。
「それじゃあ、灯り消すよー。」
『はい。』
「伊作、明日、ちゃんと褌忘れずに持って帰れよ。」
「あっ、忘れてた。」
『褌??』
「あ、あはは、何でもない何でもない。それじゃ、おやすみー。」
「ああ、おやすみ。」
『おやすみなさい。』
褌を取りに来たことをすっかり忘れていた伊作は、文次郎につっこまれそのことを思い出
す。とりあえずそれは明日になってからでいいと、誤魔化すかのように伊作は眠る前のあ
いさつを口にした。ドキドキしつつも、泣いたり笑ったりですっかり疲れてしまった伏木
蔵と左近はすぐに寝つく。文次郎と伊作もなかなか体力を使うことをしていたこともあっ
て、思った以上に早く夢の中へと落ちていった。

次の日の朝、新野先生が医務室に入ると親子のように並んで眠る四人の姿が目に入る。何
とも可愛らしい光景だと思いつつも、そろそろ起こさなければ授業に遅れてしまうと、新
野先生は四人を起こしにかかった。
「君達、もう朝ですよ。そろそろ起きないと授業に遅刻してしまいますよ。」
「んー・・・あっ、新野先生。おはようございます。」
「もう朝か。あっ、新野先生いらしてたんですね。おはようございます。」
「おはよう。潮江文次郎くん。伊作くん、伏木蔵くんと左近くんも起こさないと。」
「はい。左近、伏木蔵、もう朝だよ。起きて。」
「ん・・・んん・・・はれ?伊作先輩??」
「ん〜・・・あれ??」
昨日医務室に泊まったことをすっかり忘れている下級生二人は寝ぼけ眼で頭にハテナを浮
かべる。
「おはよう、二人とも。そろそろ長屋に帰って着替えないと授業に遅れちゃうよ。」
「あっ、そうか。昨日は医務室に泊まったんだっけ。」
「おはようございます。伊作先輩、潮江先輩、新野先生。」
状況を把握した二人はしっかりと目を覚まし、先に起きた伊作や文次郎に朝のあいさつを
する。新野先生の言うとおり、そろそろ長屋に戻って着替えないと授業に間に合わなくな
ってしまうので、四人はとりあえず自分達の部屋に戻ることにした。
「さてと、それじゃ着替えに部屋へ戻るか。」
「そうだね。左近も伏木蔵も授業には遅れないようにね。朝御飯も食べなきゃだし。」
『はーい。』
朝御飯も食べなければならないと、四人は廊下に出て自分達の部屋に向かって歩き出した。
今日の天気は昨夜の嵐とは打って変って眩しいほどの快晴であった。学年ごとの長屋に分
かれる廊下で、左近と伏木蔵は文次郎と伊作にちょっとしたお願いをする。
「あの・・・先輩。」
「ん?どうしたの?」
「昨日ぼく達が鬼を見たって泣いたこと、他の人には内緒にして下さい。」
「お願いします。」
「もちろん、誰にも言わないよ。ね、文次郎。」
「ああ。」
余計なことを言うと自分達のしていたことがバレると、二人は笑顔で左近と伏木蔵の言葉
に頷いた。よかったと安心して笑う二人が下級生の長屋にパタパタと戻って行くのを見送
りながら、文次郎と伊作は顔を見合せて苦笑する。
「いやー、昨日のことバレなくてよかったね。」
「ああ。」
「それにしても、文次郎、鬼って・・・くく・・・」
左近と伏木蔵が本気で文次郎のことを鬼だと思って怖がっていたことを思い出し、伊作は
笑う。そこまで笑うことはないだろうと、文次郎は不機嫌顔で伊作を睨んだ。
「間違える方が悪い。」
「ふふふ、でも、文次郎昨日はやっぱり鬼っぽかった・・・」
「そんなに笑うな!!」
あまりにも伊作が笑うので、文次郎は伊作を羽交い締めにする。冗談でしているので、そ
んなに痛くはないのだが、伊作はわざとらしく騒いでみせた。
「やっぱり鬼だー、文次郎。」
「まだ、言うか。このっ。」
「暴力はんたーい!!」
そんなふうにふざけていると、新野先生がやってきて伊作に声をかける。
「伊作くん、着替えたらちょっと手伝って欲しい仕事があるんだけど。」
「あっ、はい。」
「さっさと着替えに行くか。」
「そうだね。」
いつまでもふざけていたら、それこそ授業や朝御飯に遅れてしまうと、文次郎は伊作を離
す。六年生の長屋に向かおうとする二人だったが、ふと文次郎があることを思い出す。
「そうだ、伊作。ちゃんと褌持ってきたか?」
「あっ!忘れた!!取ってこなくちゃ!!」
「俺は先に戻ってるぜ。まあ、今日は合同実習もあるし、また後で会えるからな。」
「うん。じゃあ、また後でね、文次郎。」
昨日は褌を取りに医務室に戻ったのに、また忘れてしまったと、伊作は慌てて医務室に戻
る。全く伊作はドジっ子で可愛らしいなあと思いながら、文次郎はふっと笑い、自分の部
屋へ戻るのであった。

                                END.

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