春『姫君に 花の冠 捧げれば うれしさ故に 蝶は舞ひけり』
暖かな春の午後、竹谷と孫兵は様々な種類の花が咲いている花畑に来ていた。穏やかな日
差しを浴びながら、二人は花畑の中に座る。
「暖かくて気持ちいいなあ、孫兵。」
「そうですね。虫にもぼく達にも心地いい気温です。」
色とりどりの花の上には、たくさんの蝶が飛び回っている。そんな蝶達を眺めていると、
何故だかその蝶達は孫兵の周りに集まってくる。
「おっ、何か蝶々がこっちに寄って来てるな。」
孫兵の周りに集まった蝶は、孫兵の頭、肩、腕にとまる。たくさんの蝶に囲まれて、孫兵
は嬉しそうに笑う。
「ここの蝶々は人懐っこいですね。」
「はは、そうだな。まあ、普通はどんなに人懐っこくても、こんなにとまったりはしない
と思うけどな。きっと、蝶々が孫兵を花と間違えてるんだ。」
「こんなにたくさんの花があるのに、間違えますか?」
花畑の中にいるとは言えども、さすがに花と人は間違えないだろうと、孫兵はクスクス笑
いながら、そう返す。
「だって、こんなにたくさんの蝶々が集まってきて、孫兵にとまってるんだ。孫兵は花の
蜜みたいないい匂いでもするんじゃないか?」
「そんなことはないですよ。」
「まあ、それは冗談として、孫兵は虫には優しいからな。孫兵がすごく優しくて、自分達
のことを好いてくれているってことが、蝶には分かるんだろ。」
そんな竹谷の言葉に、孫兵は照れたような笑みを浮かべる。嬉しそうな表情で、孫兵は自
分の腕にとまっている一匹の蝶を手のひらで包み、竹谷の差し出す。そして、竹谷の手の
甲に乗せると、にっこりとしながら、竹谷の顔を見上げた。
「竹谷先輩もすごく優しいですよ。ほら、竹谷先輩の手からも蝶々が逃げないですもん。」
「そ、そうか?」
「はい。それに、こんなにたくさんの蝶々に好かれているぼくが、一番好きな人なんです
から。」
はにかみながら、そんなことを言う孫兵の言葉に、竹谷の心臓はドキンと跳ねる。ここま
でハッキリと言われると、恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちで胸の中がいっぱいになり、
体温も次第に上がってくる。
「いやー、そのセリフは反則だろう・・・」
「えっ?」
「あ、いや・・・まあ、すごく嬉しいけどさ・・・」
竹谷の言葉を聞いて、孫兵はニコニコした表情で、竹谷を見る。そんな孫兵を竹谷は心底
可愛いなあと思う。
「と、とりあえず、もう少し蝶々と遊ぶか。」
「はい!」
たくさんの蝶々と孫兵は楽しそうに戯れる。孫兵がそんなことをしている間に、竹谷は指
を動かし、あるものを作る。
「孫兵。」
「はい、何ですか?竹谷先輩。」
ぽすっ・・・
「?」
「おー、やっぱ似合うな。」
竹谷が作っていたものは、花の冠であった。周りの花で作った冠を竹谷は孫兵の頭に乗せ
る。
「花輪ですか?」
「おう!孫兵には似合うと思って、作ってみたんだが、ここまで似合うとはなあ。」
「ぼくは女の子じゃないですよ。」
「女の子じゃなくても、孫兵は可愛いからいいんだよ。それに、花輪の部分にさっきより
蝶がとまって、さらに可愛い感じになってるぞ。」
竹谷の言っていることが本当かどうかを確かめるために孫兵は頭の上の花輪に手を触れる。
花に手が触れた瞬間、その指にも蝶々がとまる。
「本当ですね。」
「だろ?」
「ありがとうございます。竹谷先輩。」
花輪に手を触れたまま、孫兵はにっこり笑って、お礼を言う。本当にお姫様みたいだなあ
と思いながら、竹谷は赤くなる顔を押さえた。
「どうしたんですか?」
「いや、別に何でもないさ。」
「そうですか。あっ、そうだ、竹谷先輩。」
「ん?何だ?」
「ちょっと手出して下さい。」
孫兵にそう言われ、竹谷は左手を孫兵に差し出す。差し出された手を取って、孫兵はきゅ
っと一つの花を竹谷の指に結びつけた。
「花の冠のお返しです。竹谷先輩には、花輪よりもこっちの方が似合うかなあと思いまし
て。」
孫兵が花の指輪をつけてくれたのは、薬指であった。そういえば、左手の薬指というのは
恋人同士では特別な意味があると、最近読んだ本に書いてあったなあと竹谷は思い出す。
孫兵がそのことを知っているのかいないのかは分からないが、竹谷にとっては、それがと
ても嬉しかった。
「ありがとな、孫兵。」
「どういたしまして。」
しばらくお互いの顔を見ていた二人だったが、なんとなく恥ずかしくなってしまい、頬を
染めながら視線をそらす。ドキドキする感じを誤魔化すかのように、孫兵は話題を変える
ような言葉を発した。
「そうだ!花の首飾りをジュンコにも作ってあげよう。」
「お、いいんじゃないか?俺も手伝うぜ。」
ジュンコにも花輪を作ってあげようと、二人は近くにある花に、同時に手を伸ばす。どち
らも同じ花を取ろうしたため、二人の手はコツンとぶつかった。
『あっ。』
「あ、あはは、悪い悪い。」
「い、いえ・・・」
「じゃあ、俺が花を摘んで孫兵に渡すから、孫兵はそれで花輪を作ってくれ。」
「分かりました。」
役割を決め、二人はジュンコのために花輪を作る。しばらくは黙って花輪を作っている二
人であったが、花を編みながら、孫兵は竹谷に話しかける。
「あの・・・竹谷先輩。」
「何だ?」
「また、こんなふうに一緒にお花畑に来たいです。」
恥ずかしいのか孫兵は竹谷の方を見ずに、そう口にした。また可愛らしいことを言ってく
れるなあと、竹谷はふっと口を緩ませて、孫兵の頭にぽむっと手を置く。
「ああ、俺もそう思ってたところだ。」
「本当ですか?」
「もちろん。また一緒に来て、蝶々と遊んだり、花輪作ったりして遊ぼうな。」
「はい!」
竹谷の言葉に、孫兵は実に嬉しそうな笑みを浮かべて返事をする。あまりに孫兵が嬉しそ
うな顔を見せてくれるので、竹谷も同じように笑顔になる。そんな二人の気持ちを表すか
のように、孫兵の体にとまっていたたくさんの蝶達も、二人の周りを嬉々として飛び回り
始めた。
夏『恋をして 儚きいのち 燃えたらむ まとふは蛍 いとしき君と』
「おー、悪いな。急に呼び出して。」
「いえ、今日は特に用事はありませんでしたから。」
とある夏の夜、竹谷は孫兵を呼び出した。竹谷の手には二人分の外出届が握られている。
「外出届があるってことは、どこかに出かけるんですか?」
「ああ、お前に見せたいものがあってな。」
それは気になるなあと、孫兵は竹谷の誘いに応じる。忍術学園の外に出ると、竹谷は山の
方へ向かって歩き出した。
「どこへ行くんですか?」
行き先が気になり、孫兵は歩きながらそう尋ねる。
「それは着いてからのお楽しみだ。楽しみは後に残しておいた方がいいだろ?」
孫兵の質問に、竹谷はにっと笑って答える。それもそうかと、孫兵はそれ以上突っ込むこ
となく、黙って竹谷について行った。
「あともう少しで着くんだが、その前に・・・」
そう言うと、竹谷は懐から一枚の手拭いを出す。
「ここからは、ちょっと目隠しをしてもらいたいんだけどいいか?」
「構いませんけど・・・どうしてですか?」
「その方が見たときの感動が倍増するかなあと思ってさ。」
「なるほど。」
竹谷の言葉に納得した孫兵は、目隠しをすることを了承する。流石に三年生ともなれば、
暗闇に恐怖を感じることもなく、竹谷がしっかりと手を握ってくれているので、孫兵にと
って、目隠しをされることは特に問題はなかった。
「ちゃんと手引いてやるから、安心しろよ。」
「はい。」
「ま、怖かったら、俺の手もっと強く握ってていいからな。」
「大丈夫ですよ。」
孫兵が余裕のある声でそんなことを言い、特に強く握り返してくれたりはしないので、竹
谷は孫兵の手を握る力を強める。さっきよりも強い力で、手を握られ、孫兵は苦笑する。
「心配なんですか?」
「何がだ?」
「大丈夫だと言っているのに、すごく強く手を握ってきているので。」
「まあ、こうしてた方が俺が安心ってのはあるな。」
「そうですか。」
それなら仕方ないと、孫兵はくすくす笑う。そんなやりとりをしているうちに、二人は目
的地に到着した。
「よーし、到着だ。今から目隠し外すけど、俺がいいって言うまで、目つぶってろよ。」
「はい。」
しゅるりと目隠しが外されるが、孫兵は竹谷の言うことを聞き、目は閉じたままでいる。
どんなものが見れるのだろうという期待感に胸を躍らせながら、孫兵は竹谷の合図を待っ
た。
「よし、もう目開けていいぞ。」
そう言われ、孫兵はゆっくりと目を開ける。
「うわぁ・・・」
開いた目に映ったのは、数えきれないほどの蛍であった。たくさんの光が自分達の周りを
取り囲み、それはもう言葉では言い表せないほどの幻想的な光景であった。
「どうだ?すごいだろ?」
「すごいです!こんなにたくさんの蛍が飛んでいるの見るの始めてかもしれないです!」
予想以上の光景に、孫兵のテンションは一気に上がり大はしゃぎだ。
「この前自主練してるときに見つけてさ。これは孫兵にも見せなきゃと思って連れて来た
んだ。」
「ありがとうございます!すごく嬉しいです!」
ここまで喜んでもらえるとは思わなかったので、竹谷も嬉しくなる。キラキラと目を輝か
せながら、蛍を眺める孫兵を見て、竹谷は心から連れて来てよかったと思った。しばらく
の間、光を放ちながら自分達の周りを飛び回る蛍を眺めていると、孫兵はなんだかしんみ
りとした気分になる。そんな気分に浸っていると、竹谷がふと呟いた。
「蛍って、どうしてこんなに綺麗なんだろうな。」
「短い命の中で精一杯生きて、命をかけて恋をしているからですよ。」
竹谷の問いかけに、孫兵はさらっとそう答える。孫兵らしい実にロマンチックな答えに、
竹谷は図らずもドキッとしてしまう。
「命をかけて恋をしているから・・・か。確かに蛍が光るのって、恋人を見つけるためだ
から、そうかもしれないな。」
「蛍の光は熱を持たないので、『冷光』って言われてますけど、光を放つその想いは、き
っと人間よりずっとずっと熱いと思うんです。だって、一週間しか生きられないんですよ。
この光の中には、きっと熱くて強い想いが、たくさんたくさんつまっているんだと思いま
す。」
蛍の光をその身に纏いながら、そんなことを言う孫兵に竹谷は目を奪われる。
「でも、たった一週間で、こんなに綺麗な命が消えてしまうのは、やっぱり悲しいですよ
ね。」
一匹の蛍をその手で包みながら、孫兵は悲しげに微笑む。そんな孫兵を見て、竹谷はどう
しようもないくらいの切なさに襲われ、孫兵の体をぎゅっと抱きしめた。
「た、竹谷先輩・・・?」
名前を呼んでも黙ったままの竹谷を心配し、孫兵はもう一度声をかける。
「急にどうしたんですか?」
「なんか・・・蛍に包まれてる孫兵見てたら、蛍と一緒に孫兵が消えちゃうような気がし
て・・・」
強く抱きしめる腕から、その気持ちは痛いほど伝わり、孫兵は困ったように笑う。そして、
竹谷の背中に腕を回すと、落ち着いた口調で言葉を紡いだ。
「ぼくは蛍じゃないんで、消えたりはしませんよ。」
「うん、そうだな。」
蛍に囲まれ、お互いの体をしっかりと抱きしめながら、二人はその体温と鼓動を感じる。
孫兵の鼓動を全身で感じながら、竹谷は心からこのぬくもりと鼓動を失いたくないと強く
思う。
「なあ、孫兵。」
「はい、何ですか?」
「蛍はこんなに短い間でも、一生懸命恋をして、こんなに綺麗に光って、俺達の目を楽し
ませてくれる。けど、俺は別にこいつらに何をしてやることも出来ない。それでも、俺は
ただ孫兵とずっと一緒にいたいと思っちまう。・・・それって、わがままだよなあ。」
命を大事に思う竹谷だからこそ、蛍の一生と自分達を比べ、そんなことを考えてしまう。
しかし、孫兵はそれを否定するような形で、竹谷の言葉に答えた。
「そんなことはないですよ。」
「えっ?」
「蛍は儚い命の中で、燃えるような恋をするのが運命なんです。でも、ぼく達は蛍じゃな
いですから。もちろん蛍の生き方も素晴らしいと思いますけど、ぼくは長い一生をかけて、
愛を育む人の生き方も嫌いじゃないですよ?」
「孫兵・・・」
「それに、ずっと一緒にいたいっていうのは、ぼくだって同じ気持ちですから。」
はにかむような笑みを浮かべて、孫兵はそう口にする。孫兵も自分と同じ気持ちでいるこ
とを聞いて、竹谷は言葉に出来ない嬉しさと孫兵を愛しく思う気持ちで胸がいっぱいにな
る。もう一度、想いを込めて孫兵の名を呼ぶと、竹谷は自分より一回りほど小さい孫兵の
体をしっかりと抱きしめ直した。
「孫兵。」
名前を呼んだ後、竹谷は孫兵の耳元でそっと想いを囁く。その言葉を聞いて、孫兵は耳ま
で真っ赤に染まったが、口元には恥ずかしそうな笑みが浮かんでいた。
蛍の森での二人だけの時間。それはひどくゆっくりと流れていった。
秋『月の夜に 鳴くはすずむし きりぎりす 膝のうへにて 夢路を辿る』
月が真ん丸に輝く夜、竹谷と孫兵は長屋の廊下に腰かけ、お月見をしていた。秋風が髪を
揺らし、心地よい涼しさを運んでくる。
「月が綺麗ですね。」
「ああ、絶好のお月見日和だな。」
月を見ながら耳に入る音は、コオロギやスズムシの鳴き声だ。この風景に合った美しい音
色に、二人は非常に穏やかな気分になる。
「なんか、こう静かな場所で虫の声聞いてると、眠くなってきちまうよなあ。」
ふあーと大きなあくびをして、竹谷はそんなことを言う。
「竹谷先輩、いつも後輩達の世話とか頑張ってますもんね。」
「お前も含めてだぞ?」
「あはは、分かってますよ。お疲れなら、そろそろ部屋へ戻りますか?」
「んー、でも、もうちょっと孫兵とお月見してたいしなあ。」
眠いのは確かだが、こんなに綺麗な月と虫の声を前にして、部屋に戻ってしまうのは惜し
い。そして、何よりも孫兵と一緒にいられなくなるのが嫌だと、竹谷は困ったような顔を
する。
「それなら・・・」
そう言いながら、孫兵は膝の部分をパタパタと払って、竹谷の方を見る。
「どうぞ。」
「えっ・・・?」
「枕よりは寝心地はよくないかもしれないですけど、ないよりはマシでしょう?」
自分の膝をポンポンと叩き、ここを使って下さいと孫兵は竹谷に示す。始めは何を示して
いるのか分からなかった竹谷だが、膝枕をしてくれるということに気づくと、かあっと顔
を赤く染める。
「えっと・・・いいのか?」
「はい、もちろんです。」
「じゃ、じゃあ・・・」
そこまで言うのならと、竹谷は孫兵の膝を枕にして横になる。普段はその膝にジュンコや
他のペット達がいることが多いので、自分がこんなことをしてもらえるとは思ってもみな
かった。
「なんか・・・ちょっと恥ずかしいな。」
「そうですか?」
「孫兵は恥ずかしくないのか?」
「さあ、どうでしょうね。」
自分だけこんなにドキドキしているのかなあと思いながら、ちらっと孫兵の顔に目をやる
と、ほのかに赤く染まっていた。
(なんだ、孫兵だってドキドキしてるんじゃん。)
自分だけがそういう気持ちになっているわけではないということに気づき、竹谷はホッと
する。そう思った瞬間、急激に眠気が強くなった。
「孫兵の膝、寝心地よくて・・・マジで寝そう。」
「別に構わないですよ。そのためにしたんですから。」
「でも・・・まだ、孫兵と話・・・した・・・」
言葉を最後まで言い終える前に、竹谷は夢の中へ落ちていってしまう。本当に疲れていた
んだなあと思いながら、孫兵はくすくす笑った。
「あれ?孫兵に八左ヱ門?」
「なんかすごいことしてるようだが。」
五年生の長屋にいるので、厠に行こうと部屋から出て来た雷蔵と鉢屋に声をかけられる。
二人の方を振り返ると、孫兵は口の前に人差し指を立て、しーっとするような仕草をする。
「八左ヱ門、寝ちゃってるんだ。」
「こんなところで後輩に膝枕させて寝てるなんて、やるよなあ。」
「ぼくがしたいって言ったんです。竹谷先輩、疲れていて眠いと言っていたので。」
「目の前に自分の部屋があるんだから、戻って寝ればいいのにな。」
「まあ、そうしたら孫兵を三年生の長屋に帰さなくちゃいけなくなるからね。それが嫌だ
ったんじゃない?」
竹谷が言っていたこととだいたい合っているので、さすが同じクラスなだけあるなあと、
孫兵は雷蔵の読みに感心する。
「夜も遅いし、あんまり遅くならないようにね。起きなかったら、叩き起しちゃっていい
から。」
「そうだぞ。こんなうらやましい光景、他の奴らに見られたら、妬かれるぞ?」
冗談っぽくそんなことを言ってくる鉢屋と雷蔵に孫兵は苦笑しながら頷く。厠に行って、
戻って来た二人は、孫兵におやすみと言って、自分達の部屋へ戻って行った。
半刻程経つと、竹谷はやっと目を覚ます。目を覚ましてすぐは自分が今どういう状況なの
か、呑みこめず、しばらくぼーっとしていた。
(あれ?俺はどこで寝てたんだっけ?)
「起きましたか?竹谷先輩。」
「へっ・・・?うわあ!」
孫兵に声をかけられ、竹谷はがばっと起き上がる。いまだに状況が掴めず、竹谷は軽くパ
ニクっていた。
「えっ、なっ・・・俺、何でっ・・・?」
「ふふ、寝ぼけてますね。二人でお月見をしていて、竹谷先輩が眠いとおっしゃってたん
で、ぼくが膝をお貸ししたんですよ。」
孫兵に説明されて、竹谷はやっと今の状況を理解する。
「あー、そっか。そういえば、そうだったな。俺、どれくらい寝てた?」
「んー、分からないですけど、そんなにすごく長い間ってわけじゃないですよ。」
「そ、そっか。足とか痺れてないよな?ゴメンな、こんなに熟睡しちまって。」
「いえ、お月見も出来て、虫の声も長いこと聞けて、竹谷先輩の寝顔をたくさん見れたん
で、個人的には満足です。」
「ま、孫兵・・・」
本当に嬉しそうな表情で、孫兵がそんなことを言ってくるので、竹谷は何となく恥ずかし
くなってしまう。
「と、とりあえず、そろそろ部屋に戻った方がいいよな。三年の長屋まで送るよ。」
「はい、ありがとうございます。」
随分長いこと、五年生の長屋にいさせてしまったと、竹谷は孫兵を三年生の長屋まで送る。
孫兵の部屋の前まで来ると、孫兵が襖を開けた。
「悪いな、こんなに遅い時間まで付き合わせちまって。」
「気にしないで下さい。さっきも言った通り、ぼくとしてはすごく楽しめたんで。」
「そっか。じゃ、明日もあるし、しっかり寝るんだぞ。」
「はい!あ、竹谷先輩。」
竹谷が部屋を出ようとするのを一旦止め、孫兵はぐいっと竹谷の腕を引っ張る。そして、
竹谷の頬に軽くちゅっと口づけをした。
「おやすみなさい、竹谷先輩。」
「お、おう。おやすみ。」
竹谷が部屋の外へ出ると、孫兵は顔を緩ませながら、布団の中へ入った。一方、竹谷は心
臓が爆発しそうなほどドキドキし、顔を真っ赤に染めている。
(あー、ヤバイ。心臓ドキドキしすぎて、今日はもう寝れないかも・・・)
そんなことを考えながら、竹谷は五年生の長屋へ戻って行く。そんな竹谷の気持ちを知っ
てか知らずか、長屋の外の虫達は、いつまでもその澄んだ鳴き声を響かせていた。
冬『雪虫は 儚ささへも 似せたるか それゆえ触れず 眺めつるのみ』
冬に入り始めの晴れた日、竹谷は菜園の近くで孫兵を見つける。声をかけようと思い、近
づいてみると、ふと不思議な光景が目に入った。
(あれ?雪?)
孫兵の視線の先には、ふわふわとした雪が舞っているように見えた。しかし、今の天気は
雲一つない快晴。雪など降るわけがなかった。
「孫兵。」
声をかけると、孫兵は竹谷の方を振り返る。
「竹谷先輩。」
「俺の目の錯覚か何だか分からないけど、向こうから見てると孫兵の側だけ雪が降ってい
るように見えるんだよな。何でだろう?」
そんな竹谷の言葉を聞いて、孫兵はふっと笑う。そして、竹谷を手招きした。
「ここから見れば分かりますよ。ただし、あんまり近づき過ぎないで下さいね。」
「?」
そう言われ、竹谷は孫兵のすぐ側までやってくる。しかし、そこから見てもやはり雪が降
っているように見える。
「やっぱり、雪が降ってるように見えるなあ。」
「雪にそっくりですけど、あれは『雪虫』です。雪虫が飛ぶと雪が降るって言われてるん
ですよ。最近寒くなってきましたし、近く雪が降るのかもしれませんね。」
「へぇ、そうなのか。でも、本当雪みたいだよなあ。」
あまりにも雪にそっくりなその姿に、もう少し側で見たいと、竹谷は雪虫の方へ歩み寄ろ
うとする。それに気づき、孫兵は竹谷の腕を掴んで制止した。
「ダメです。竹谷先輩。」
「えっ?」
「別に毒があるとかそういうわけじゃなんですけど、雪虫は他のものにくっつくと、離れ
られなくなって、そのまま死んでしまうんです。」
「あ、そうなんだ。それは確かに近づき過ぎない方がいいな。」
雪虫のことを思っての言葉に、竹谷はさすが孫兵だなあと感心する。
「姿形も雪みたいだけど、性質も雪みたいなんだな、雪虫って。」
「えっ?どういうことですか?」
「だって、他のものにくっつくと死んじゃうんだろ?雪の結晶も他のものにくっつくと、
溶けて消えちゃうじゃないか。」
「ああ、なるほど。確かにそうですね。」
「だろ?虫って確かに寿命は短いけど、ここまで儚い虫も珍しいよな。」
竹谷の言葉に孫兵は頷く。雪のような姿と儚さを持ったその虫に、二人はしばらく心を奪
われていた。
「・・・くしゅんっ!」
寒空の下ずっと雪虫を眺めていたため、孫兵はくしゃみをする。ちょっと寒くなってきた
なあと、体を震わせていると、ふわっと何かで首の周りを覆われる。
「?」
「寒いんだろ?ちゃんと暖かくしてないと風邪ひくぞ。」
「あの・・・これは?」
「日が暮れたら寒くなるだろうと思って持ってきてたんだ。」
竹谷が孫兵の首に巻いてやったのは、マフラーであった。今しがた巻かれたばかりという
のに、そのマフラーはとても温かかった。
「竹谷先輩がしてたわけじゃないのに、なんか温かいです。」
「ああ、懐に入れてたからな。そんなの巻かれるのは嫌か?」
「いえ、全然そんなことは・・・むしろ、すごく温かくて心地いいです。」
「そっか。それならよかった。」
嫌がられたらちょっとショックだなあと思っていた竹谷は、孫兵の言葉を聞いて安心する。
(本当に温かい・・・)
そう思いながら、孫兵は竹谷に巻いてもらったマフラーに顔を埋める。竹谷の懐にしまっ
てあったためか、そのマフラーにはほのかに竹谷の匂いがついていた。
(この匂い・・・すごく落ち着く・・・)
「孫兵?」
「えっ!?あっ、はい!」
「そんなに寒いんだったら、中に戻るか?」
あまりに孫兵がマフラーに包まるようにして、ぼーっとしているので、竹谷はそんなふう
に声をかける。しかし、寒いと思ってそういうふうにしていたわけではないので、孫兵は
慌てたような素振りを見せ、首を振った。
「あ、全然大丈夫です!竹谷先輩からマフラー貸して頂いて、すごく温かいですから!」
「でも、顔も赤くなってきてるぞ?」
「そ、それはっ・・・えっとぉ、と、とにかく大丈夫なんで、もう少し雪虫を見ていまし
ょう!」
「まあ、孫兵がそこまで言うならもう少し見ていくか。」
とにかく動揺した心を落ち着かせようと、孫兵は深呼吸をする。冷たい空気で肺が満たさ
れ、少しは顔の熱さも和らいだ。
「竹谷先輩は、寒くないんですか?」
「俺?俺は別に平気だな。」
「さすが五年生ともなると違いますね。」
「いやー、五年生だからとかそういう感じではなくてだな・・・孫兵といると、体温上が
る感じがして、寒さも忘れるというかなんというか・・・」
「えっ?」
「あっ、いや、何でもない!あはは、今のは聞かなかったことにしてくれ!」
何故かドギマギしたような態度をとっている竹谷を見て、孫兵は首を傾げる。まあ、いい
かともう一度雪虫の方へ目をやると、だいぶその数が減っていることに気づいた。
「だいぶ雪虫少なくなりましたね。」
「あ、本当だな。」
「きっとちゃんと他の木に移動出来たんでしょうね。よかった。」
雪虫の様子に嬉しそうな笑みを浮かべる孫兵を見て、竹谷はきゅんとしてしまう。やっぱ
り、孫兵は生き物に対しては優しいなあと惚れ直してしまう。
「やっぱ、孫兵は優しいな。」
「いきなり何ですか?」
「雪虫のことを思って、すごい優しそうに笑うからさ。ちょっと雪虫が妬けちまうくらい
だ。」
冗談っぽくそう言う竹谷に、孫兵はマフラーに顔を埋めたまま言葉を返す。
「冬が嫌いだったぼくを、冬も好きにしたのは竹谷先輩なんですけどね。」
「えっ?」
「冬はジュンコや他のペット達や虫達はみんな冬眠しちゃって、すごく寂しい季節だった
んですよ。でも、今は竹谷先輩が一緒にいてくれますから、あんまり寂しくないんです。」
恥ずかしそうに笑いながら、そんなことを言ってくる孫兵に、竹谷の顔は真っ赤に染まり、
体温も一気に上昇する。
「マジか。ヤバイ・・・超嬉しい・・・」
「今年の冬もよろしくお願いします。竹谷先輩。」
「お、おう!」
もうジュンコの代わりにずっと一緒にいてやるというようなことを思いつつ、竹谷は孫兵
の言葉に頷いた。二人の眺めていた雪虫が全て木に移動し終わる。そして、本格的な冬が
これから始まるのだ。
END.