夜も更け、そろそろ眠ろうかと思っていた伊作は、ふと廊下に出る。厠に行きたい等特に
用事があるわけではないが、なんとなく出たくなったのだ。
「留三郎はもう寝ちゃったし、明日も早いからぼくも寝なきゃいけないんだけどなあ。」
しかし、何故かまだ眠りたくないのだ。廊下に出てみると、空には明るい三日月が浮かん
でいた。そんな月明かりの下、伊作は長屋に向かって素早く動いている影を見つける。
(あ、文次郎だ。)
影の正体は自主練帰りの文次郎であった。今日の自主練はもう終えるようで、伊作を見つ
けると、文次郎は声をかける。
「何だ伊作。まだ起きてたのか?」
「もうそろそろ寝ようかと思ってたとこ。」
「なら、ここで何してるんだ?」
「んー、何してるんだろう?」
眠りにつく前の何気ない行動。自分でしている行動なのだが、どうしてそうしているかが
伊作自身分からなかった。
「何してるんだろうってお前・・・まあ、いいか。あ、そうだ。」
「どうしたの?」
「これ、夜間訓練の途中で見つけたんだが、お前にやろうと思って。」
そう言って文次郎が伊作に手渡したのは、白くかなり香りの強い花であった。その香りに
魅かれ、一輪摘み取って伊作に見せてやろうと思ったのだ。
「この花、月下香だね。」
「へぇ、そんな名前の花なのか。」
「夜になると、香りが強くなるんだ。これ、ぼくにくれるの?」
「ああ、そのためにとって来たんだからな。」
文次郎からその白い花を受け取ると、伊作はニッコリ笑ってお礼を言う。まさかこんなプ
レゼントを文次郎からもらえると思っていなかったので、伊作の胸はかなりときめいてい
た。
「本当、綺麗だなあ。ちゃんと部屋に飾っておくよ。」
「気に入ってくれたんならよかったぜ。」
「・・・ねぇ、文次郎。」
「ん?何だ?」
「この花・・・月下香の花言葉なんて知らないよね?」
「あー、まあ、そういうことには詳しくねぇからな。そうだ、今日、仙蔵が長次の部屋で
寝るって言って、部屋が空いてんだよ。もし、伊作が嫌じゃなければ、泊まりに来ないか?」
文次郎のその言葉を聞いて、伊作はドキっとする。別に何を期待しているわけではないが、
文次郎が花言葉を知らないとはいえ、この花をもらった後にその提案は伊作にとって、非
常に胸を高鳴らせることであった。
「それ、誘ってる?」
「えっ、まあ、泊まりに来ないかって誘ってはいるけどよ。」
「いや、そう言う意味じゃなくてさあ。」
「どういう意味だよ?」
「月下香の花言葉はね、『危険な快楽』って意味なんだよ。そんな花を贈られて、しかも、
部屋に誘われたりなんかしたらさぁ・・・」
伊作の言わんとしていることを理解し、文次郎の顔は若干赤くなる。花を贈ったのも、部
屋に誘ったのも、全くそういうつもりはなかったのだが、そんなことを言われてしまえば、
嫌でも意識してしまう。
「い、いや、そんなつもりは全くなかったんだけどよ・・・その、花言葉も知らなかった
わけだし。ただ、綺麗だなあと思って・・・」
かなりドギマギとしている文次郎を見て、伊作はくすくす笑う。
「ふふ、分かってるよ。でも、仙蔵が長次の部屋で寝るって、小平太はどうしたんだい?」
「ああ、何か体育委員会の仕事で、泊まりがけで下見だって言ってたぞ。」
「なるほどね。じゃあ、せっかくだから、文次郎の部屋にお邪魔しようかな。」
せっかく誘われたのだからと、伊作は文次郎の部屋に泊まることにする。文次郎の部屋へ
移動しながら、伊作はきゅっと文次郎の制服を握った。ちらっと自分の方を見るが、特に
振り払うでもなく文次郎はそのまま部屋に向かって歩き続ける。
(早めに寝ちゃわないで、廊下に出ててよかったなあ。今日は全然不運じゃないぞ!むし
ろ、すっごくラッキー。こんなことって滅多にないなあ。)
普段が超絶不運であるがゆえに、伊作にとっては今の一連の出来事がもう嬉しくてたまら
なかった。あまりにテンションが上がり、何故だか伊作は泣きそうになってしまう。
「何か嬉しすぎて泣きそう。」
「はぁ!?どんだけだよ?そんなに嫌なことがあったのか?」
「別にそういうわけじゃないけどさー。いつもは不運なのに、今日はすっごくすっごくい
い日だなあと思ってたらさ。」
「どの部分がそんなにすごくいい日な要素なんだよ?」
「文次郎に花もらって、部屋に誘われたコト。」
キッパリとそう言い切る伊作に、文次郎は言いようもない照れくささを感じる。いくらな
んでもそれで、泣きそうになるほど嬉しいというのは大袈裟だろうと感じていた。
「・・・そこまでのことじゃねぇだろ。」
「ぼくにとってはそこまでのことなの!」
「まあ、お前がいい日だって思えるんなら、それはいいことなんじゃねぇの?」
「うん!」
文次郎の言葉に屈託のない笑顔で頷くと、伊作は文次郎の部屋の障子を開き、文次郎より
先に中へと入る。そして、くるっと振り返ると、少し恥ずかしそうな表情を浮かべ、文次
郎に問う。
「文次郎。」
「何だよ?」
「さっきもらった花の、花言葉みたいなこと期待していい?」
それを聞いて文次郎の顔はかあっと赤く染まる。そんな表情で、そんなことを言われたら、
そんな気がなくても、そういう気分になってしまう。
「お前がそこまで言うなら、別に期待しても・・・構わないけどよ。」
「本当!?」
「そんなに嬉しそうな顔すんじゃねぇよ、バカ。」
あまりに素直に嬉しさを前面に出す伊作に、文次郎はいろいろ我慢出来なる。何となく眠
れなかったのはこれが理由だったのかと、自分自身の中で納得しながら、伊作はこの状況
を心から楽しむのであった。