想詩 〜弐〜

文次郎が例の忍務に出てから、ちょうど三年目になる日の夜。伊作はいつものように自然
に溢れてくる涙を止められないでいた。
コンコン・・・
すると、突然、戸を叩く音が薄暗い部屋の中に響く。
「こんな真夜中に、誰だろう・・・?」
涙を拭いながら、伊作は戸を開けようと玄関へと向かう。いきなり開けるというのは不用
心なので、外に向かって伊作は声をかけた。
「どちら様ですか?」
「・・・伊作、俺だ。」
外から聞こえる声を聞いて、伊作は心臓が止まるかと思うほどドキリとする。その声は、
この数年間、毎日毎日聞きたいと願っていた声にあまりにも似ていた。あまりにも鼓動が
速くなりすぎて、呼吸もままならなくなる。震える手で戸に手をかけると、伊作はゆっく
りその戸を開いた。
「伊作。」
今目の前にある光景を伊作はすぐに理解出来なかった。あまりにもそれを望んでいたため
に都合のよい幻覚を見ているのかとも思った。
「・・・・も、文次郎・・・?」
「今、帰ったぞ。伊作。」
そう言いながら、文次郎は伊作の体を抱きしめる。これは夢ではないかと呆然とする伊作
であったが、その腕の強さ、声、ぬくもりは、ハッキリとその体に感じられる。それは長
い間、自分が求めていたものであり、あまりの驚きと感動から、伊作はしばらく声を失っ
た。しかし、本当に今自分を抱きしめてくれているのが、本物の文次郎であるということ
をもっとハッキリ確かめたいと、伊作は必死で言葉を紡ごうとする。
「文次郎・・・本物の文次郎だよ・・ね・・・?」
「偽者の俺が居るってのか?」
「ほら、一つ下の鉢屋とかは変装の名人だったし、忍術習ってたら、変装くらい・・・」
「わざわざ変装して、こんな夜中にお前のところへやってくる奴なんてそうそういないだ
ろ。」
「で、でもっ・・・・」
「安心しろ。俺はれっきとした潮江文次郎だ。他の誰でもない。」
あまりにも伊作が疑ってくるので、文次郎は苦笑しながらそんなことを言う。本物の文次
郎が自分のもとへ帰ってきたと分かると、伊作は言いようもない喜びと感動から胸の奥が
熱くなる。それは、熱い涙となって外に溢れだした。
「うわああぁぁんっ、文次郎――っ!!」
「心配かけてすまなかったな。それから、こんなに長い時間待たせちまって。」
「ひっ・・・ひっく・・・いいよっ・・・そんなこと・・・・こうして、戻ってきてくれ
た・・・だけで・・・」
「ああ・・・」
伊作が今自分の腕の中に居るということを噛みしめながら、文次郎は帰ってきたのだとい
うことを心の底から実感する。伊作の髪、伊作の声、伊作のぬくもり、その全てが文次郎
にとっては、ひどく懐かしく愛おしいものに感じられた。

伊作の気分が落ち着くと、文次郎は伊作の家に上がり、この三年間にあったことを話し始
める。それは、伊作もずっと知りたいと思っていた真実であった。
「噂で聞いていたかもしれないが、三年前の忍務で俺は、しくじって敵方の城に捕まって
しまった。」
「うん・・・」
「別に油断をしてたわけではないんだがな。しかし、失敗は失敗だ。その城で、俺はあり
得ない程の拷問を受けた。」
やはり、あの噂は本当だったのかと、伊作は胸が痛くなる。
「その後、瀕死の状態で山の中に放置されたってのも・・・・本当なの?」
「まあな。けど、それほど瀕死ってほどではなかった。骨が数本いって、動けなくなって
いた程度だ。放置はされたはされたけど、すぐに助けてくれた人がいたしな。」
「そうなの?」
「ああ。ただ、体じゃない部分で思ってもみないダメージを受けてて、それがここにも帰
って来れず、誰にも連絡が出来なくなっちまった理由だ。」
「どんな・・・理由・・・?」
恐る恐る伊作はその理由を尋ねた。しばらくの沈黙があった後、文次郎はゆっくりと口を
開く。
「記憶喪失になっちまってたんだ。」
「えっ・・・?」
「自分の名前以外、全て忘れてしまっていた。自分が何者だったのか、何をしてたのか、
どこに住んでいたのか、どうしてこんな状況になっているのかが全く分からなかった。幸
いその助けてくれた人が、学園長の知り合いで、相手が俺のことを知っていてくれてたの
が救いだったんだけどな。」
「そうだったんだ。」
まさかそんなことがあったなど、予想だにしていなかった伊作は、その話を聞いてひどく
驚いたような反応を見せる。それなら、死んではいなくても、帰って来れないと納得して
しまった。
「一年くらいは、本当に何も思い出せなかった。世話になっていた人に色々な話を聞かさ
れたが、全くピンとこなくてな。」
「・・・・僕のことも、忘れちゃってたの?」
「本当にすまないと思うが、その通りだ。」
「・・・そっか。」
ショックではあるが、それは仕方のないことだと伊作は苦笑する。しかし、文次郎はじっ
と伊作のことを見つめながら、話を続けた。
「だがな、記憶が取り戻せたのはお前のおかげなんだぞ。」
「へっ?どうして?」
「一年を過ぎて、少しした頃から、毎晩毎晩妙な夢を見るようになったんだ。」
「夢?」
「ああ。夢の中でな、誰だか分からないんだが、泣いているんだ。初めは本当に小さな泣
き声だけだった。姿も見えず、小さな泣き声しか聞こえない。変な夢だとは思ったが、そ
れほど気にしないでいた。」
「うん。」
「けど、月日が経つにつれて、その泣き声が大きくなるんだ。それで、ぼんやりとだが、
姿も見えてきた。」
「不思議な夢だね。」
この時点では、伊作はまだ気づいていなかった。文次郎がその奇妙な夢を見るようになっ
た時期と、伊作が毎晩泣き続けるようになった時期がちょうど同じくらいであるというこ
とに。
「ある程度の時が経って、気づいたんだ。夢の中で泣いているのは、俺のよく知っている
奴だって。けど、その時点じゃそれが誰だかは全く分からなかった。さらに時間が経つと、
その夢の中で泣いている奴が、俺の名前を呼ぶんだ。それが、今年の初めくらいのことだ
な。」
「それで?」
「その声に俺は聞き覚えがあった。そう思った瞬間、泣いている奴の姿がだんだんとハッ
キリ見えてきたんだ。後ろ姿がハッキリ見えた時、俺はそいつの名前を無意識に呼ぼうと
していた。」
「その人の名前、覚えていたの?」
「夢の中だからな。何度か声をかけようとしたところで、起きちまって結局分からずじま
いだった。けどな、つい一週間くらい前に夢の中で泣いてるそいつに声をかけることが出
来たんだよ。」
ここまでの話を聞いて、随分と長い期間同じ夢を見ていたのだなあと伊作は気づく。そし
て、それが記憶を取り戻すための鍵になっているということにも気づいた。
「夢の中で、俺がそいつの名を呼ぶと、泣きはらした目でそいつは俺の方を振り向いた。
その顔を見て、俺はハッキリと思い出したんだ。そいつが誰なのか。何て名前なのか。そ
して、自分が誰なのかを。」
「えっ?それってつまり、全部の記憶が戻ったってこと?」
「ああ、そうだ。俺の夢の中で、ずっと泣いていた奴ってのがな、伊作、お前だったんだ
よ。」
「嘘・・・?」
「嘘なもんか。お前のことを思い出した瞬間、今まで忘れていた記憶が全て俺の頭の中に
戻ってきた。信じられない速さでな。」
自分がきっかけで、三年間も記憶喪失だった文次郎の記憶が蘇ったことを知り、伊作はト
クンと胸が高鳴った。そして、文次郎がその夢を見ていた時期に、自分が毎晩泣き続けて
いたことにも気づく。
「あっ・・・」
「どうした?伊作。」
「文次郎がその夢を見始めたのって、文次郎が居なくなってから、一年と少ししてからな
なんだよね?」
「ああ、そうだが。それがどうかしたか?」
「その頃からね、僕、毎晩文次郎のことを想いながら泣いてたんだ。文次郎に会いたくて、
悲しくて苦しくて、涙が枯れるまでずっとずっと泣いてた。」
「それじゃあ・・・・」
「うん。夢じゃなくて、僕は本当に泣いてたってこと。」
その話を聞いて、文次郎は記憶が戻ったのは偶然などではなく、伊作の想いの強さが記憶
を戻してくれたのだということを知る。そう思うと、伊作のことが愛しくて愛しくてたま
らなくなる。先程よりももっと強い力で伊作を抱きしめ、文次郎は心からの感謝の言葉と
謝罪の言葉を伊作に述べた。
「俺の所為で、そんなに辛い思いをさせちまったんだな。本当にすまない。それから、こ
んなにも長い間、俺のことを想い続けてくれて、俺の記憶を取り戻してくれて、本当にあ
りがとう。」
「ううん、お礼を言うのはこっちの方だよ、文次郎。」
「どういうことだ?」
何故、伊作の方が礼を言う必要があるのかと文次郎は不思議に思う。そんな文次郎の疑問
に、伊作は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべて答えた。
「生きて僕のところに帰ってきてくれて、ありがとう、文次郎。」
「伊作・・・」
その言葉を聞いて、文次郎は目頭が熱くなる。文次郎の頬に堪え切れない涙が伝った。そ
んな文次郎に、伊作はこの三年間言いたくても言えなかった言葉を静かに放つ。
「おかえり、文次郎。」
背中に腕を回し、抱きしめ返してくれる伊作に、文次郎は心を打たれる。あまりの感動に
しばらく何も言えずにいた文次郎だったが、その言葉に答えるべく、やっとのことで言葉
を紡ぐ。
「・・・・ただいま、伊作。」
三年振りの再会に、二人は今まで伝えられなかった想いを伝え合う。そんな言葉を交わし
た後、二人は三年間離れていても変わらずに抱いていたお互いに対する想いを確かめるた
め、その身を重ね合わせるのであった。

溢れんばかりの想いを伝え合い、その想いを全身全霊で感じ合った後、少し落ち着いてき
た二人は、一つの布団にその身を横たえながら、三年前にした約束の話をする。
「そういえば、文次郎。あの時した約束、覚えてる?」
「ああ、忍務が終わったら一緒に旅行に出かけようってのだな。」
「その約束もちゃんと思い出してくれたんだ。・・・その約束、今も有効かな?だいぶ時
間が経っちゃってるけど。」
「お前の仕事によりけりだろ。俺はもうしばらくは休養が必要だって言われたからな。し
ばらく、忍者の仕事は休まなければならないし。」
「そっか。じゃあ、行こうよ文次郎。僕の仕事は、急を要するようなものでもないし。最
近は、調子があんまりよくなかったから、それほど入れてないしね。」
「なら、行くか。約束は守らねぇとだしな。」
「うん!どうせだったら、いろんなところ回ろう。日本全国ぐらいな勢いで!」
「いいんじゃねぇか?お前と一緒なら、俺はどこでも大歓迎だぜ。」
「じゃあ、明日からは旅支度しなくちゃね。」
「そうだな。」
三年前にした約束を果たそうと、二人はどこに行こうかという話で盛り上がる。二人であ
れば、どこに行ってもきっと楽しい旅になるだろうと、どちらも思っていた。ある程度の
話がまとまると、伊作は文次郎の顔をじっと見て、本当に嬉しそうに微笑む。
「文次郎・・・」
「何だ?伊作。」
「これからはずっと一緒だよ。もう勝手に僕の前から居なくなっちゃ嫌だからね。」
「分かってる。もうあんな思いはたくさんだ。それにお前にこれ以上辛い思いをさせるな
んてあり得ねぇしな。」
何となく不安になってそんなことを口にしてみた伊作だったが、文次郎から安心出来るよ
うな答えが返ってきたので、ホッとしたような顔になる。もっともっと文次郎を近くで感
じていたいと、伊作はぎゅうっと文次郎に抱きついた。
「お、おい、伊作!!」
「文次郎、大好きだよ。」
「ったく、お前は・・・」
「文次郎は?」
「は?」
「文次郎は、僕のことどう思ってるの?僕は言ったんだから、文次郎も言わなきゃ不公平
だよ。」
「全く・・・そんなの好きに決まってんだろ!」
「へへへ、ありがとう文次郎。」
恥ずかしそうにそう言う文次郎の言葉を聞き、伊作はニッコリと笑顔になる。想うことを
諦めなければ、必ず想いは届く。そんなことを考えながら、伊作は文次郎と共に在る幸せ
を噛みしめるのであった。

                                END.

「想詩〜ウムクトゥ〜」の歌詞

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